新撰組三番隊長 斎藤一の生涯
斎藤一は、油小路の変、天満屋事件で影の主役となり、鳥羽、伏見の戦い以降は幕府方として会津まで転戦し、会津で明治の世を迎え、やがて警視庁警部補となり、西南戦争にも出陣しました。 幕末から明治へという時代の大転換期に、武人としての気骨を堅持し続けた最後の剣客と言われています。 ”新撰組三番隊長 斎藤一の生涯”(2012年7月 新人物往来社刊 菊池 明編著)を読みました。 幕末の京都を警護した新選組の隊士で剣客として知られる、斎藤一の生涯を紹介しています。 編著者の菊地明さんは、1951年東京都生まれ日本大学芸術学部卒の幕末史研究家であり、他の著者は、長屋芳恵さん、伊東成郎さん、山村竜也さん、市居浩一さん、伊藤哲也さん、林栄太郎さんです。 新選組とは所詮、幕末という時代に咲いた徒花です。 歴史を動かしたわけでもなく、歴史に名前を残したわけでもありません。 しかし、その世界にどっぷりと浸かってしまった方々にとって、徒花ではあっても十分に鑑賞に堪える花であることはいうまでもありません。 斎藤一という新選組隊士も、一輪の名花です。 斎藤一は1844年に父・山口祐助、母・ますの三子として生まれました。 出身地は江戸とされますが、播磨国ともいわれ、父が明石出身であったことから明石浪人を名乗ったようです。 会津出身、と書かれた資料もあるそうです。 父・祐助は播磨国明石藩の足軽でしたが、江戸へ出て石高1,000石の旗本・鈴木家の足軽となりました。 後年、御家人株を買って御家人になったといいますが、実際は鈴木家の家来だったようです。 斎藤一は、19歳のとき江戸小石川関口で旗本と口論になり、斬ってしまい、父・祐助の友人である京都の聖徳太子流剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めました。 居合いを得意とする一刀流の使い手ともされますが、正式には不明です。 経歴には謎が多く、生涯で数回に渡り改名しています。 1863年に、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成し、同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなりました。 新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢されました。 のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務めました。 腕に覚えがある剣豪揃いの隊内における剣客師範と新撰組内部での粛清役を兼任し、加えて数々の攘夷派・倒幕派の志士達の暗殺を成し遂げました。 その実力は、沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣とまで評され、三番隊組長として新撰組を牽引しました。 池田屋事件では土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられました。 新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与したといわれます。 1867年に紀州藩の依頼を受けて、同藩士・三浦休太郎を警護し、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃されました。 三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷を負うなどの被害を出しましたが、斎藤は鎖帷子を着ており無事でした。 将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加しました。 1868年に鳥羽・伏見の戦いに参加、甲州勝沼に転戦、斎藤はいずれも最前線で戦いました。 近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向かいました。 このとき斎藤は負傷して戦列を離れていて、流山にはいなかったという説もあるそうです。 会津藩の指揮下に入ってから、白河口の戦い、母成峠の戦いにも参加しました。 敗戦により若松城下に退却し、土方らは庄内へ向かい、大鳥圭介ら幕軍の部隊は仙台に転戦しましたが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けました。 会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降しました。 降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送りました。 明治時代に入ってからは転封先の斗南藩に移住し、篠田やそと結婚しました。 のち、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・藤田時尾と再婚しました。 藤田五郎と改名し、数年後に警視庁の警官となりました。 妻との間には、三男をもうけています。 1877年に警部補になり、西南戦争では抜刀隊として参戦しました。 別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長を務め、斬り込みの際に敵弾で負傷しましたが奮戦しました。 戦後、政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与されました。 その後、麻布警察署詰外勤警部として勤務し、1891年に退職しました。 警官を辞した後は警視庁の剣術師範や、学校の撃剣教師などを務めました。 自宅も女学生たちのための寄宿舎として開放していました。 晩年は妻・時尾と共に、会津戦争にて戦死した隊士たちの供養に奔走しました。 1915年に 病気のため東京市本郷区で没しました。 階級は警部、勲等は勲七等青色桐葉章でした。 墓地は会津・阿弥陀寺にて、妻・時尾とともに眠っているそうです。 斎藤一が生きた時代斎藤一の出自と家族新選組結成まで斎藤一と剣高台寺党と斎藤一天満屋事件と斎藤一鳥羽・伏見の戦いから流山まで斎藤一の会津戦争高田謹慎から斗南在住まで晩年の斎藤一