クレタ島(感想)
クレタ島は、ギリシア共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島です。 古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持ち、温暖な気候や自然の景観から地中海の代表的な観光地です。 ”クレタ島”(2016年2月 白水社刊 ジャン・テュラール著 幸田礼雅訳)を読みました。 クレタ島について、古代ミノア文明から第二次世界大戦までの波乱に富んだ歴史を紹介しています。 島全体でギリシア共和国の広域自治体の地方を構成していて、首府はイラクリオです。 ジャン・テュラールさんは1933年生まれのフランス近代史を専門とする歴史家で、幸田礼雅さんは1939年生まれで1966年東京大学仏文科卒業の翻訳家です。 クレタ島はヨーロッパ、アジア、アフリカの三つの大陸から等距離にある島で、古代ギリシア・ローマ文明においては世界の中心と考えられていました。 島国的特性をもった島がクレタ島であり、その制限的な特性こそがさまざまなドラマが生まれる原因となりました。 船を迎え入れる海岸、実り豊かな平野、避難場所としての山の三つの地理的環境が、クレタの歴史を動かすと同時にその秘密を明かします。 伝説の霧に包まれたクレタ島の過去は、長いあいだ神秘でした。 19世紀終わりまで、人びとはクレタ島の歴史をドーリア人の侵入以後、しかもアリストテレスが島によせた関心の度合いに応じて学んだにすぎませんでした。 島で生まれた素晴らしい神話は、当時、無価値なおとぎ話の寄せ集めとしかみなされていませんでした。 20世紀の初め、アーサー・エヴァンズの考古学的発見によって、伝説に符合するような一つの文明がクノッソスに存在したことか明らかとなりました。 この文明は、島の強力な支配者だったミノス王をたたえてミノア文明と命名されました。 以来ギリシアの起源は新たな光で解明され、クレタ人が果たした先駆的役割が明らかになっていきました。 とはいえ、クレタの歴史はいまなお数多くの闇に包まれています。 ミノス伝説はある意味で史実に対応し、クレタ時代におけるミノアの海上制覇を象徴するものでした。 当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかありませんが、平和で開放的であったと考えられています。 紀元前27年に、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置しました。 ローマ帝国の東西分裂後は、東ローマ帝国が領有を継承しました。 5世紀ごろ、キリスト教の布教が始まりました。 7世紀末から8世紀に、クリトのアンドレイが主教を務めました。 824年に、イベリアのイスラム教徒が侵入しました。 カンディアを建設し、クレタ首長国の首都としました。 以降は、東ローマ帝国による奪還まで、東地中海で略奪を働く海賊の拠点となりました。 961年に、東ローマ帝国が奪回しました。 1204年に、十字軍に参加していたヴェネツィア共和国により征服され、ルネサンス文化が伝えられました。 1348年にペストが大流行し、以降もたびたび大流行し、人口が流出したり減少したりしました。 1492年に、スペインのレコンキスタから逃れてきたユダヤ人がクレタ島に流入しました。 1574年に、ジャコモ・フォスカリーニによる非カトリック住民への圧政が始まりました。 1644年から1669年にかけて、オスマン帝国がクレタ島の領有権をめぐって争い、結果的にオスマン帝国領となりました。 オスマン帝国とギリシアの争いに加えて、欧州列強の介入により国際政治の上では翻弄され続けました。 1830年のロンドン議定書により、オスマン帝国からエジプトに移されました。 以降、クレタ州成立までキリスト教徒による反乱が散発し、1840年にオスマン帝国に戻されました。 1913年に第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が領有権を放棄しギリシア領となりました。 1936年にギリシア本土のクーデターに反抗し暴動が発生し、戒厳令が敷かれました。 1941年に、第二次世界大戦中にイギリス軍が進駐し、本土がドイツ軍に占拠されたため、国王、首相がクレタに避難しました。 その後ドイツ軍はクレタにも進軍し、国王と首相はカイロに逃れました。 ドイツ軍の駐留は第二次大戦終了まで続き、ドイツ降伏後はギリシアに支配権が戻りました。第一部 古代のクレタ島 第一章 ミノス王のクレタ島の発見 第二章 ミノア時代の諸段階 第三章 ミノア時代における制度 第四章 ミノア時代の社会組織の変化と経済活動 第五章 ミノス王時代の宗教 第六章 ミノア芸術 第七章 ミュケナイ文明とドーリア人の貢献 第八章 古典主義時代ならびにヘレニズム時代のクレタ島 第九章 ローマの平和第二部 近代のクレタ島 第一章 ビザンティン時代のクレタ島 第二章 クレタとヴェネツィア共和国 第三章 クレタとトルコ 第四章 クレタとギリシア