平泉の光芒(感想)
東北の中世史といえば、藤原三代の栄華と滅亡が中心です。 ”平泉の光芒”(2015年7月 吉川弘文館刊 柳原 敏昭編)を読みました。 日本初の武士の都であり仏教文化が栄えた世界遺産の平泉を中心に、藤原氏三代による清衡の草創、基衡の苦悩、秀衡の革新、その後の滅亡への実像に迫っています。 柳原敏昭さんは1961年新潟県生まれ、1984年東北大学文学部卒業、1990年東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退で、東北大学大学院文学研究科教授を務めています。 平泉は岩手県南西部にある古くからの地名で、現在の平泉町の中心部にあたります。 地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残っています。 そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年6月26日にユネスコの世界遺産リストに登録されました。 平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域です。 11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していました。 俘囚の流れを汲む、東北地方の先住民系の豪族でした。 安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが前九年の役です。 大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていましたが、最終局面で清原氏の加勢を得ることに成功した源頼義が勝利しました。 1062年安倍氏は滅亡しましたが、安倍頼時の外孫の藤原経清の息子が清原武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗りました。 1083年に清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡と清衡、そして異父弟の清原家衡との間に内紛が発生しました。 この内紛に源頼義の嫡男だった源義家が介入し、清衡側について家衡を討ったのが後三年の役です。 真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなりました。 清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となりました。 これが奥州藤原氏の始まりです。 奥州藤原氏は、前九年の役・後三年の役の後の1087年から源頼朝に滅ぼされる1189年までの間、陸奥・平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を振るいました。 藤原清衡は陸奥押領使となり、奥六郡を支配しました。 後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し、更に南下の勢いを見せ、栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築きました。 1105年に中尊寺一山の造営に着手し、本拠地を平泉に移し、政庁となる平泉館を建造しました。 戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善と、造寺造仏、写経の功徳により、極楽往生を願って中尊寺を建立しました。 中尊寺を構成するのは、寺塔40余宇禅坊300余宇の大伽藍群でした。 1124年に金色堂が完成し、その4年後に73歳で生涯を閉じました。 藤原基衡は陸奥押領使となり、勢力を福島県下まで拡大しました。 中尊寺をはるかに凌ぐ、40十余宇、禅坊500余宇の大伽藍毛越寺を建立しました。 藤原秀衡は鎮守府将軍に任ぜられ陸奥守になって、白河以北を完全に支配しました。 源義経を、少年時代と都落ちの際の二度にわたり庇護しました。 奥州藤原氏は4代泰衡の時に源頼朝によって滅ぼされましたが、平泉の建造物群については保護されました。 金色堂中央の須弥壇の中に、清衡、基衡、秀衡の遺骸、泰衡の首級が納められています。 清衡と彼の時代をあつかうのが第一章「清衡の草創」です。 平泉藤原氏第二代・基衡とその時代は第二章「基衡の苦悩」で描かれます。 第三章「秀衡の革新」で扱う第三代・秀衡の時代は、まさに平泉と藤原氏の最盛期です。 第四代・泰衡の時代に平泉藤原氏は滅亡します。 第四章は掘り出された平泉、第五章平泉文化の歴史的意義、第六章東アジア・列島のなかの平泉は特論にあたります。序 “平泉”とは何か第一章 清衡の草創第二章 基衡の苦悩第三章 秀衡の革新第四章 掘り出された平泉第五章 平泉文化の歴史的意義第六章 東アジア・列島のなかの平泉第七章 奥州合戦