孫文の机(感想)
”孫文の机”(2012年11月 白水社刊 司 修 著)を読みました。 この本のカバー写真に映っている机の前に座る画家、大野五郎とその二人の兄の生涯を追った昭和初期から戦後までの物語です。 孫文も辛亥革命も登場せず、孫文の机も主役ではありません。 孫文が使っていた机にまつわる兄弟の物語で、記者の大野日出吉、詩人の大野四郎、画家の大野五郎の物語で、三つの職業名からなる章で構成されています。 小説でもなく評論でもなく、随想に近いものです。 司 修さんは1936年群馬県前橋市生まれ、画家・装幀家・作家で、1976年に講談社出版文化賞ブックデザイン賞、1978年に小学館絵画賞、1993年に川端康成文学賞、2007年に毎日芸術賞、2011年に大佛次郎賞を受賞しています。 三兄弟は栃木県下都賀郡の谷中村出身で、祖父の大野孫右衛門と父大野東一は谷中村の村長を務め、足尾銅山鉱毒事件で財を成したという暗い影を背負っていました。 谷中村は、かつて栃木県下都賀郡にあった村で、1906年に強制廃村となり、同郡藤岡町に編入されました。 雨のたびに渡良瀬川の堤が決壊し、氾濫するたびに足尾銅山鉱毒事件により大きな被害を受け、以後、鉱毒反対運動の中心地となりました。 足尾銅山鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる公害事件です。 原因企業は古河鉱業で、銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらしました。 1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続けました。 2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。 三兄弟は、それぞれ、九人兄弟の、次男、四男、五男でした。 二・二六事件、足尾鉱毒事件、満州国を絡めた、三人の兄弟の足取りが描かれています。 次男日出吉は和田家に夫婦養子に入り、ワシントン州立大学に留学しました。 農業政策を学ぶはずがジャーナリストの道を選び、時事新報を経て中外商業の記者になりました。 下関出身の大女優・小暮実千代=和田つまの夫でした。 昭和11年に起きた二・二六事件は、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒をめざし、1500余名の部隊をひきいて首相官邸などを襲撃したクーデターです。 事件の際は真っ先に首相官邸に入り、首謀者の一人栗原中尉と面識があり、要人殺害の直後、首相官邸に乗り込むのを許され、凶行のあとを真っ先に目撃しました。 岡田首相の遺体が安置された寝室を覗いたものの、近づいて顔を確かめなかったので、それが誤認された人物だったことに気づきませんでした。 事件の報道は、勤めていた中外商業新報の生々しい特ダネ記事として精彩を放ちました。 武藤山治とともに番町会を糾弾し、松岡洋右に頼まれ、満州で新聞社を経営して羽振りを利かせました。 四男の大野四郎はペンネーム逸見猶吉という詩人、童話作家で、野獣派詩人の草野心平などの仲間で、歴程創刊時の同人の1人です。 草野心平から、日本のランボーと呼ばれました。 1931年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、大学在学中の1928年に逸見猶吉を名乗りました。 1937年に日蘇通信社新京駐在員として、満州に渡り、1940年に結成された日本詩人協会に参加しました。 1943年に関東軍報道隊員として満州北部に派遣され、1946年に新京で死去しました。 詩は寡作で、没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作です。 酒飲みながら多く詩を発表し、満州で有名人となりました。 和田日出吉と逸見猶吉が大野姓を隠した理由は、足尾銅山鉱毒事件で水没させられた谷中村と深い関わりがあったそうです。 渡良瀬遊水地の一角に、ウルトラマリンの詩の一部を刻んだ詩碑が建立されています。 五男の大野五郎はあまり売れない孤高フォービスムの前衛画家で、絵を描きながら著者と各地を旅しました。 1926年に斉藤與里の紹介で、藤島武二が指導する川端画学校に入学しました。 1928年に第3回一九三〇年協会展に初入選し、第5回展まで出品しました。 1929年に同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けました。 1930年に第17回二科展に入選しました。 兄猶吉が開き、のち捨てた神楽坂のバー””ユレカ”を引き継ぎながら絵画に専念し、、1931年に第1回独立美術協会展に入選しました。 のち主体美術協会を結成するなど、孤高の画家となりました。 そして、兄からもらったという孫文の机を捨て去り、飄々と生きたといいます。 著者は25歳のころ前橋の家から布団一枚とボストンバック一つを持って出て、赤羽稲付町に住んで、赤羽袋町にいた画家・大野五郎と知りあったそうです。 若いころの大野五郎が使っていた机は、次兄の和田日出吉が雑司が谷の古道具屋で買い求めたものでした。 次兄から、”孫文が持っていたものだ、大事に使えよ”といわれたといいます。 机の前に座るカバー写真には、五郎22歳の記載があり、背景には、”第一回洋画展覧会・九知會”というポスターが見えます。 本書は、著者が赤羽で出会って以来続けた大野五郎との対話を基調にしています。