知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯(感想)
松平信綱は江戸時代前期の大名で、武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主で、老中として松平伊豆守信綱の呼称で知られています。 徳川三代、秀忠、家光、家綱に仕え、抜群の危機管理能力で徳川長期政権の礎を築きました。 幼少の頃より才知に富み、官職の伊豆守から”知恵伊豆=知恵出づ”と称されました。 ”知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯”(2005年12月 講談社刊 中村 彰彦著)を読みました。 徳川15代の礎を築き知恵伊豆と呼ばれた、松平信綱の生涯を紹介しています。 著者はもともと会津藩初代藩主保科正之のことをいろいろ調べる中で、松平信綱の生き方に興味を持ったといいます。 中村彰彦さんは、1949年栃木市生まれ、東北大学文学部卒業後、文藝春秋勤務を経て文筆活動に入り、エンタテインメント小説大賞、中山義秀文学賞、直木賞、新田次郎文学賞を受賞しています。 松平信綱は1596年に徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれ、1601年に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となりました。 父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近に居住し、生母・深井氏は白井長尾氏の末裔でした。 1603年9月に将軍世子の徳川秀忠に従い、11月に正綱に従って伏見城に赴き、徳川家康と初めて拝謁しました。 1604年7月に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になり、のち5人扶持となりました。 1611年に前髪を落として元服し正永と名乗り、1613年に井上正就の娘と結婚しました。 1620年に500石を与えられ、1623年に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受け、家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官されました。 1624年に1,200石を加増され、1626年に家光の上洛に再度従いました。 1628年に相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられ、合計1万石の大名となりました。 このときに一橋門内において屋敷を与えられました。 1630年に上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増されました。 1632年4月に家光の日光山参詣に従い、のち老中と小姓組番頭を兼務しました。 1633年に、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に6人衆に任命されました。 阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増され3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられました。 1634年に”老中職務定則”と”若年寄職務定則”を制定しました。 6月に家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、家光より駿府城で刀と盃を賜り、のち、従四位下に昇叙されました。 1635年に寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定し月番制も定め、将軍直轄の体制を固め職務の改革を進めました。 1636年に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務めました。 1637年10月に島原や天草などでキリシタン一揆が発生しました。 信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じました。 しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化しました。 当初、幕府軍の総大将は板倉重昌で、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていました。 1638年1月に重昌が戦死し、石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任しました。 副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議が行われて兵糧攻めに持ち込みました。 この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きて、原城を陥落させることができました。 信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首としました。 戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され、1639年1月に3万石加増の6万石で川越藩に移封されました。 信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めました。 島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行いました。 また、オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させました。 1638年11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括しました。 1639年8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めました。 1651年4月の家光没後は第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変を鎮圧しました。 1652年9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧し、1657年1月の明暦の大火などの対応に務めました。 1662年1月に病気に倒れて出仕できなくなり、その後、一度は回復したものの病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いしました。 3月に老中在職のまま、享年67歳で死去しました。 信綱は、天草・島原の乱、明暦の大火、慶安事件など、次々と発生する大事件に処置を講じ、一度たりとも失着を犯さなかったといいます。 信綱が知恵伊豆と呼ばれたのも、徳川二代将軍秀忠、三代家光、四代家綱に仕え、つねに明晰な判断力を発揮して、長きにわたる徳川の平和の実現に寄与したからにほかなりません。 ひるがえって近頃の政治家、役人、財界人たちの言動を眺めれば、危機管理能力と誠実さの欠如、リーダーシップのなさばかりが目につくといいます。第1章 将軍家の小姓として第2章 「六人衆」から老中へ第3章 天草・島原の乱を平定せよ第4章 名老中への道第5章 徳川の平和年 譜 松平信綱とその時代