常陸・秋田 佐竹一族(感想)
秋田で400年の歴史をもつ佐竹氏は常陸国からきた清和源氏の名門であり、合わせて900年生きのびたといいます。 平安末期に源義光の孫である佐竹昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着定住し、佐竹冠者と称したのが始まりです。 初めは常陸奥七郷の豪族でしたが、鎌倉・室町幕府の御家人として活躍する中で、貞義以降は代々常陸国の守護になりました。 そして、一族の内乱や常陸国内外の諸勢力と戦いながら領国を拡大していきました。 ”常陸・秋田 佐竹一族”(2001年6月 新人物往来社刊 七宮 涬三著)を読みました。 七宮涬三さんは1928年東京生まれ、香川大学経済学部を経て岩手大学教育学部卒、日本社会事業大学研究科に学びました。 岩手日報社の東京支社編集部長、本社政経部次長・論説委員を経て、富士大学教授、同大学付属地域経済文化研究所長を歴任しました。 佐竹氏の祖は清和源氏で河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流で、武田氏に代表される甲斐源氏と同族です。 源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である義光流源氏の一族で、佐竹氏の初代当主については、義光の子の源義業とする説と、義業の子の源昌義とする説があります。 昌義が常陸国久慈郡佐竹郷住み、地名にちなんで佐竹を名乗ったことから、昌義を初代当主とする説が一般的です。 常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称した、という話が伝わっています。 平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる、多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配しました。 そして、常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築きました。 中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立しました。 治承・寿永の乱において佐竹氏は平家に与したため、後に源頼朝によって所領を没収されました。 鎌倉時代は奥七郡への支配権は、宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごしました。 南北朝時代になると、佐竹氏第8代当主佐竹貞義と第9代当主義篤は早々に足利氏に呼応して北朝方に属しました。 そして、小田氏や白河結城氏といった関東における南朝方勢力と争いました。 室町幕府が樹立すると、これらの功績から守護職に任ぜられ、やがて幕府の関東出先機関である鎌倉府の重鎮として活躍しました。 貞義の息子の一人である佐竹師義は、足利将軍家の直属の家来の佐竹山入家を興しました。 義篤の孫で第11代当主佐竹義盛の時代には、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ、関東八屋形のひとつに列せられました。 室町時代中期、佐竹氏宗家当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられました。 佐竹の男系の血筋を引く佐竹山入家はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなりました。 こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も、佐竹氏の常陸統一は困難を極め戦国大名化も遅れました。 戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で中興の祖と呼ばれた佐竹義舜が現れ、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ、常陸北部の制圧に成功しました。 義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させました。 戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められました。 水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移しました。 1600年の関ヶ原の戦いにおいて、家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取りました。 戦後処理は翌年にはほぼ終了し、義宣は上洛して伏見城で徳川家康に拝謁しました。 5月8日に家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封されました。 関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われています。 徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏でした。 また、実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っていて脅威でした。 こうして佐竹氏は、平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去りました。 江戸時代を通じて佐竹氏は、久保田藩を支配する石高20万5,800石の外様大名として存続しました。 明治になって、佐竹氏第30代、第32代当主で旧久保田藩主の佐竹義堯は侯爵に、旧久保田新田藩の佐竹壱岐守家の当主の佐竹義理は子爵に叙せられました。 佐竹一族が900年生きのびた源流を、常陸時代の佐竹一族に見ることができます。第1章 境界の梟雄第2章 常陸源氏・佐竹一族第3章 常陸北朝の雄第4章 守護大名の苦悩第5章 戦国大名への道第6章 武将義昭の若い夢第7章 戦国の猛将・鬼義重第8章 近世大名義宣、秋田転封