民俗学読本-フィールドへのいざない(感想)
民俗とは、古くから民間に伝承してきた風俗・習慣です。 民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など、古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにします。 そして、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問です。 ”民俗学読本-フィールドへのいざない”(2019年11月 晃洋書房刊 高岡弘幸/島村恭則/川村清志/松村薫子/編著)を読みました。 民間伝承の調査を通して、主として一般庶民の生活・文化の発展の歴史を研究するための13のフィールド物語が織りなす、民俗学の思考法などを紹介しています。 近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではありません。 日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成されました。 本書は、4名の編著者と別の9名の執筆者によって構成されています。 髙岡弘幸さんは1960年生まれ、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、現在、福岡大学人文学部教授。 島村恭則さんは1967年生まれ、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学、現在、関西学院大学社会学部教授、世界民俗学研究センター長。 川村清志さんは1968年生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了、現在、国立歴史民俗博物館准教授。 松村薫子さんは1972年生まれ、総合研究大学院大学文化科学研究科国際日本研究専攻博士後期課程修了、現在、大阪大学日本語日本文化教育センター、大学院言語文化研究科日本語日本文化専攻准教授。 ほかに、執筆者として、 兵庫県立歴史博物館学芸課長の香川雅信さん、 関西学院大学社会学研究科大学院研究員の孫 嘉寧さん、 南山大学南山宗教文化研究所研究員の後藤晴子さん、 宮城学院女子大学教育学部教授の大内 典さん、 チュラーロンコーン大学文学部東洋言語学科日本語講座専任講師のサンラヤー・シューショートケオさん、 熊本大学大学院人文社会学科研究学部教授の山下裕作さん、 福岡大学人文学部准教授の中村 亮さん、 千葉県立中央博物館主任上席研究員の島立理子さん、 呉市海事歴史科学館学芸課学芸員の藤坂彰子さんが挙げられています。 人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っています。 こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがあります。 これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもあります。 民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明しようとしています。 民俗学のどこが個性的なのでしょうか。 それは、問題の発見とその解明の基盤が、これを研究しようとする者自身の日常経験の積み重ねとしての人生にある点、そしてそこに宿る「小文字」の言葉を重視して議論を組み立てようとする点です。 民俗学とは、まず何よりも、当たり前のものとして不思議に思わない自文化.特に私たちが享受しているだけでなく、私たち自身が生み出している生活文化を「異文化」として再発見する「まなざし」です。 そして、再発見した自文化の意味や歴史的変遷などを研究します。 日本に生まれ育ったからといって、日本の文化や社会について、どれだけのことを知っているというのでしょうか。 編著者の一人は、40年近く前、目の前の知っているはずの日本文化がいきなり「異文化」として立ち現れた経験をしたことがあるといいます。 高校生のときからアフリカの広大な大地に憧れを抱き、大学では文化人類学研究会に所属し、将来はアフリカ研究者になることを夢見ていました。 サークルで京都市内の秋祭りを調べていたとき、サークルの顧問の先生から「アフリカより日本のほうが不思議で面白い」と言われたそうです。 近所の神社に連れて行き、「この中のどんなことでもいいから、説明してごらん」と言われましたが、見慣れたはずの神社の風景、建物、祭りの様子などを、何一つ説明できませんでした。 その瞬間以来、日本のありとあらゆる文化や社会が、証明不可能なアフリカ以上の「異文化」として立ち現れるようになりました。 日本に生まれ育つたからといって、日本のことを知っているとは限りません。 むしろ、当たり前すぎるほどのものであるからこそ、不思議を不思議として認識できないのではないでしょうか。 また、アフリカにせよどこにせよ、外国研究をするためには、日本のことを(ある程度は)知らなければ、問題を発見できないはずですし、比較も不可能なはずです。 そのことにも気づき、文化人類学と並行して民俗学の本を貪るように読み始めたといいます。 ところが、読めば読むほど、日本文化・社会は、「どうだ、私の謎を解き明かせるか」と大きく立ちはだかったそうです。 日本文化を「異文化」として再発見し、その意味を解読する、魅力的な学問が民俗学です。 窓から見える風景をじっくりと眺めてみてほしいです。 窓の外には、田んぼや畑が広がっていますが、農作業の方法や、農民の生活と農機具の変遷、現代の農業が抱える問題、開拓の歴史をどれほど知っているでしょうか。 あるいは、鉄筋コンクリートで造られた高層アパートが建ち並んでいるのが見えますが、ここでの暮らしはどのように成立し変化してきたのでしょうか。 そもそも、なぜこの場所にニュータウンが建設されたのでしょぷか、 寂れきった港が見えますが、昔、海が見えないほど船がひしめきあったという巷町が、なぜこのように衰退してしまったのでしょうか。 また、目的なしに街を歩いて、ふとバスや電車の中で乗客の会話を耳にし、友人やバイト仲間と世間話し、本を読んでいるとき、食事をしているとき、何か心にひっかかりを覚えたことはないでしょううか。 どんなことでもいい、何か1つでも「謎」や「不思議」が見つかるのではないでしょうか。 そうであれば、見飽きた風景のはずの田んぼや、ニュータウン、港町、街の風景、他者が話した何気ない一言、思わず目をとめた文章、大好物の食べ物が、「異文化」として再発見されたことになります。 不思議で面白そうな問題を見つけ出したとき、次にするべきことは、おそらく、図書館や博物館に赴き、文献資料、古い地図や写真など、関連しそうな資料を片っ端から調べるでしょう。 図書館や博物館で抱いた疑問がすべて氷解したらそれで終わりですが.どのように優れた内容の書物であっても、すべての疑問に明確に答えてくれるわけではありません。 そこで、さらに別の文献を探し出して謎を追い求めるタイプの人が出てくるはずです。 また、本ではこれ以上のことを知ることができないなら、昔のことに詳しいお年寄りに話を聞いてみるのもいいのではないでしょうか。 解きたい問題によっては、時間とお金をかけて遥か遠くまで行かねばならないこともあります。 民俗学の概説書には、生業(農業・漁業・林業など)、社会組織、人生儀礼、年中行事、説話伝承、都市化、信仰、妖怪と怪異といった項目が並べられています。 概説書によって民俗学の課題を知り、図書館やフィールドに向かうアクセスの仕方もあっていいでしょう。 しかし、この本を書くために集まった民俗学者たちの考え方はまったく違います。 解き明かしたい問題は、あくまで日常生活のなかで、あるいは、フィールドで見つけ出すものであり、決して誰かが事前に用意してくれた所与のものではないと考えています。 「民俗」とは生活文化、しかも自分自身が改めて再発見しなければ誰も気がつかない、当たり前すぎるほどのものです。 そのため、「民俗」は、誰かに尋ねてみようとしない限り、姿を現わすことなく、沈黙の彼方に消え去ってしまいます。 だからこそ、重い本や資料をカバンに詰め込み、より深い問いや答えのヒントを授けてくれる他者と出会うために出かけるわけです。 本書は民俗学の入門書でもなければ、概説書でもありません。 フィールドワークの面白さ、奥深さを、素哨らしさを伝えたい。 その意味で、本書は民俗学入門以前の書物と位置づけることかできるでしょう。第Ⅰ部 フィールドとしての日常生活/フィールドとしての日常生活―民俗学の原点―(髙岡弘幸)第Ⅱ部 見えない世界を視る/「好きな妖怪は特にありません」―妖怪博士の告白―(香川雅信)/「桃太郎」と伝説の「語り直し」(孫 嘉寧)第Ⅲ部 南島への旅立ち/フィールドワークの愉悦と焦燥―宮古島での3か月半―(島村恭則)/長生きと向き合う(後藤晴子)第Ⅳ部 信仰と実践/祭りをやりながら考えたこと―フィードバックする現場と理論―(川村清志)/「音」の文化を探る/―山伏に「なった」音楽学者―(大内 典)/糞掃衣の真実/―フィールドでの後悔―(松村薫子)第Ⅴ部 挑戦する民俗学/農業・農村研究というもの/―否応のない現場―(山下裕作)/21世紀のフィールドワークに向けて/―福井県小浜市田烏のナレズシをめぐる地域振興と文化人類学―(中村 亮)第Ⅵ部 博物館へ行こう!/博物館へようこそ!(川村清志)/博物館が作った「おばあちゃんの畑」というフィールド(島立理)/「戦争」の「記憶」と向き合う場所(藤坂彰子)ggcx