豊臣家最後の嫁-天秀尼の数奇な運命(感想)
天秀尼は鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持に当たり、家康の孫で秀頼の正室の千姫は養母です。 ”豊臣家最後の嫁-天秀尼の数奇な運命”(2013年2月 洋泉社刊 三池 純正著)を読みました。 秀頼の子で大坂城落城後に千姫の養女となり縁切寺として知られ、東慶寺の中興の祖となった天秀尼の生涯を紹介しています。 天秀尼は鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持に当たり、家康の孫で秀頼の正室の千姫は養母です。 大坂城落城以前の天秀尼については記録がありません。 1615年に大坂城が落城し、秀頼とその母・淀殿は自害し、豊臣家は滅びました。 秀頼の息子は斬首となりましたが、まだ7歳の少女だった天秀尼は死罪を免れ、千姫の養女となり、家康の命で東慶寺に預けられました。 三池純正さんは1951年福岡県生まれ、工学院大学工学部を卒業し、戦国期の歴史の現場を精力的に踏査し、現場からの視点で歴史の定説を見直す作業をすすめています。 天秀尼は1609年生まれ、天秀は法号で、法諱は法泰、院号は授かっていません。 母の名も、出家前の俗名も不明です。 記録に初めて表れたのは大坂城落城直後であり、それ以前にはありません。 同母か異母かは不明ですが、天秀尼の年子の兄・国松は、大阪城落城の直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが当時の記録にあります。 天秀尼は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命されました。 国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、祖母・淀殿の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとあります。 天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り、落城後に千姫の養女となったと見られます。 出家の時期は東慶寺の由来書に、仏門に入り瓊山尼=けいざんにの弟子となったという記述があります。 時に8歳だったため、出家は大坂落城の翌年の元和2年であり、東慶寺入寺とほぼ同時期となります。 東慶寺は北条時宗夫人・覚山尼の開山と伝わり、南北朝時代に後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となり、室町時代には鎌倉尼五山第二位とされました。 かつては、鎌倉尼五山第二位の格式を誇り、夫の横暴に悩む女性の救済場所でした。 代々関東公方、古河公方、小弓公方の娘が住持となっており、尼寺でこの格式ということから、天秀尼の入寺する先として選ばれました。 また師・瓊山尼の妹・月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘・振姫に仕えていました。 東慶寺住職だった井上禅定は、天秀尼の東慶寺入寺は、恐らく月桂院あたりの入知恵と推察されるとしています。 東慶寺に預けられる際、徳川家康に望みを聞かれた天秀尼は「開山よりの縁切寺法が断たれることのないように」と願い出たといいます。 その後、東慶寺の「縁切寺法」は、1872年まで存続しました。 天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていましたが、塔銘によれば、円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したという記載があります。 東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺、駆込寺として有名です。 江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのは、東慶寺と上野国の満徳寺だけで、両方とも千姫所縁です。 天秀尼について忘れてはならないのが、会津騒動といわれる会津若松藩主・加藤明成の改易事件です。 1639年に、会津若松藩主・加藤明成の非を幕府に訴えるため家臣・堀主水が妻や家臣と出奔しましたが、追っ手が差し向けられ、堀主水は高野山へ、妻は東慶寺へ逃げ込みました。 高野山は明成の要求を受け主水を引き渡し、その後斬殺されましたが、東慶寺の天秀尼は明成からの強硬な引渡し要求を拒否し、主水の妻を守ったといいます。 さらに養母・千姫を通じて三代将軍・家光に明成の非を訴え、明成は会津40万石を幕府に返上するはめになりました。 そして、会津加藤家改易から2年後の1645年2月7日に天秀尼は37歳で死去しました。 天秀尼の墓は歴代住持で最も大きなもので、側にある墓は天秀尼の世話をしていた女性のものと思われます。 一説には豊臣秀吉の側室となりのちに天秀尼の世話役もしていたという甲斐姫のものともいわれますが、真偽は不明です。 天秀尼の死によって豊臣秀吉の直系は断絶しました。 長命であった千姫は、娘の13回忌に東慶寺に香典を送っています。 天秀尼の墓は、寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔です。 墓碑銘は當山第二十世天秀法泰大和尚となっています。 著者が天秀尼の取材に初めて鎌倉東慶寺を訪れたのは、2011年の晩秋のころだったそうです。 その日は朝から少しひんやりとした気候でしたが、境内はすでにたくさんの観光客でにぎわい、みなそれぞれに紅葉に彩られた東慶寺の風情を楽しんでいました。 東慶寺の宝蔵には、天秀尼が父豊臣秀頼への供養として1642年に鋳造したという雲版が残されています。 雲版をじっと見ていると、天秀尼の父秀頼への深い思いが伝わってくるといいます。 天秀尼は父秀頼を深く尊敬し、自らが秀頼の娘であることに大きな誇りを持っていたのではないでしょうか。 大坂城が落城し父秀頼が自刃する直前まで、父や祖母・淀殿のそばにいたものと思われます。 そこで父と過ごした日々は短かったのですが、天秀尼はそのときの思い出を深く胸に秘めてその後の人生を生きていったに違いありません。 天秀尼の目に映った秀頓とはいったいどんな人物だったのでしょうか。 資料によれば、秀頼は学問・教養を身につけた賢人であり、最後は自らの意志で家康と戦う道を選ぶことになりました。 純粋で慈愛に満ちた武将だったゆえ、そのもとに集まった浪人諸将は秀頼のために命を捨てることを厭わず、千姫もそんな秀頼を心から愛し、天秀尼も父の雄姿を生涯忘れることはなかったのでしょう。 人生はちょっとしたボタンの掛け違いで大きく変わってしまうことがあります。 家康も初めから豊臣家を滅亡させることなど望んでいたとは思えません。 また、淀殿も最後は自らが大坂城を出ていくことで、豊臣家を守ろうとしました。 しかし、秀頼は豊臣家の存続より、武門の意地、さらには浪人たちの誠にこたえる道を選び、結果的に豊臣家を滅ぼすこととなりました。 もし、家康と秀頼が大坂の陣の前に忌憚なく互いの胸の内を話し合う機会があったら、このような戦は避けることができたに違いありません。 大坂の陣は、その後の天秀尼、千姫の人生を大きく変えてしまいました。 遺児となった天秀尼は、自らの宿命に立ち向かい、最後は、それを女人救済という使命に変えていきました。 本書はそんな二人の心の通い合いを描いたつもりであるといいます。序章 豊臣秀頼の首/第1章 千姫の入輿―徳川家から豊臣家へ嫁ぐ姫/第2章 秀頼の隠し子―存在を秘された二人の子の誕生?第3章 家康暗殺計画―天下人の居城で相次いだ事件/第4章 家康と秀頼―京都二条城で逆転した主従関係/第5章 宣戦布告―浪人を召集して臨んだ大坂の陣/第6章 君主秀頼―滅びゆく豊臣家と親子の対面/第7章 脱出―大坂城外で捕らえられた兄妹/第8章 天秀尼誕生―十年後の出家と千姫との交流/第9章 会津加藤家改易事件―大藩と渡り合った天秀尼/終章 宿命を使命にかえて