懐良親王 日にそへてのかれんとのみ思ふ身に(感想)
懐良親王=かねよししんのうは生年は定かでないが、1348年6月23日付の五条頼元文書に、懐良が成人したとあり、当時の成人とは数え20歳ぐらいのことと考え、逆算して1329年と推測されています。 ”懐良親王 日にそへてのかれんとのみ思ふ身に”(2019年8月 ミネルヴァ書房刊 森 茂暁著)を読みました。 後醍醐天皇の皇子として征西大将軍に任ぜられた懐良親王の生涯をたどり、南朝を強力に支えた九州南北朝史についての研究の現状、課題、成果を振り返っています。 懐良親王の没年については、1381年初頭に、母の三十一回忌として、妙見寺に宝篋印塔を奉納したものがあるため、この時期まで生存していたのは確実です。 この印塔は、長らく埋もれていましたが、1916年に発見されました。 没年として広く伝わっているのは1383年4月30日ですが、この説は根拠が弱いと言われています。 森 茂暁さんは1949年長崎県生まれ、長崎県立島原高等学校を卒業し、1972年に九州大学文学部史学科を卒業しました。 1975年に九州大学大学院文学研究科博士課程中途退学し、九州大学文学部助手となり、1980年に文部省教科書検定課勤務し教科書調査官を経て、1985年に京都産業大学教養部助教授に就任しました。 その後、山口大学教授を経て、福岡大学人文学部教授を務め、2020年に定年退職しました。 文学博士で専攻は日本中世の政治と文化と南北朝時代が専門ですが、室町時代にも関心が深いそうです。 懐良親王は1329年生まれの後醍醐天皇の皇子で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族です。 官位は一品・式部卿で、征西将軍宮と呼ばれています。 外交上は、明の日本国王として良懐=りょうかいを名乗りました。 建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考え、1336年にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにしました。 親王は五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島へ渡り、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である忽那水軍の援助を得て数年間滞在しました。 その後、1341年頃に薩摩に上陸し、谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ、九州の諸豪族の勧誘に努めました。 ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年に隈府城に入って征西府を開き、九州攻略を開始しました。 この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返しました。 1350年に観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊氏とその弟足利直義が争うと、直義の養子足利直冬が九州へ入りました。 筑前の少弐頼尚がこれを支援し、九州は幕府、直冬、南朝3勢力の鼎立状態となりました。 しかし、1352年に直義が殺害されると、直冬は中国に去りました。 これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めましたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦いで一色軍に大勝しました。 さらに懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れました。 一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じたため、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、西牟田讃岐守ら南朝方は、1359年の筑後川の戦いでこれを破り、1361年には九州の拠点である大宰府を制圧しました。 幕府は2代将軍足利義詮の代に斯波氏経・渋川義行を九州探題に任命しましたが、九州制圧は進まず、1367年には幼い3代将軍足利義満を補佐した管領細川頼之が、今川貞世を九州探題に任命して派遣しました。 1369年には、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を日本国王に命じるという、明の太祖からの国書が使者楊載らによりもたらされました。 国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし国王を捕えるという書面でした。 これに対して、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよびました。 しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で遣わしたところ、今度は国王が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと”太祖実録”にあります。 しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われ、やりとりや称臣した件の事実性は疑問視されています。 その後、今川貞世に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定されました。 懐良親王は征西将軍の職を後村上天皇皇子の良成親王=ながなりしんのうに譲り、筑後矢部で病気で薨去したと伝えられています。 良成親王は1369年に四国に渡って南朝方を統率、のち九州に帰って1375 年に征西将軍職を譲り受け、九州南朝方の中心となりました。 菊池武朝、阿蘇惟武らを率いて今川貞世を追討し、大いに兵威があがり、相良氏、禰寝氏らをも旗下に加えましたが、まもなく勢力を失いました。 日本の歴史を振り返ってみると、九州は日本列島のなかでも自立性・独立性の高い地域でした。 九州が日本の歴史の牽引力となったり、やがて到来する新しい時代のさきがけとなったりする事例は枚挙にいとまがありません。 よきにつけあしきにつけ、九州はその時代時代の最先端を突き進んでいました。 それは九州が地理的にみて中国大陸と最も近く、貿易・交易などを通して得られる文化的・経済的なメリットがあったことも考慮しなければなりません。 また、九州は変革エネルギーの噴火口であるといって過言ではありません。 中央権力が、こうした潜在的な実力を蓄えた九州に強い関心を示し、それを支配下に置こうとしたのもまた自然なことでした。 九州の特性として、時として反権力・反中央の激しいエネルギーを奔騰させました。 しかしその裏に、事大主義と中央直結思考が伏在していることも見逃せません。 1333年4月、後醍醐天皇の使者からの討幕密勅を受けた足利尊氏が、そのための軍勢催促を秘密裡に行ったとき、頼ったのは主として九州の有力武士でした。 1336年2月の尊氏の九州下向、そしてこれに続く3月の筑前多々良浜の戦いも同様に考えることができます。 父親の尊氏と激しく確執した直冬に関連する事柄にも、そのことがあらわれています。 京都での父親尊氏との権力闘争のあおりで1349年9月、九州に逃れた直冬は世直し主のような期待感を持たれつつ九州の国人たちに支持されて短期間のうちに勢力を拡大させました。 しかし、1351年3月、直冬が鎮西探題に任命され将軍勢力に取り込まれると、今度は逆に国人たちの支持を失って急速に勢力をしぼませました。 そこには土着の思想も強く息づいていますし、九州の国人たちが持つ反中央の性格も色濃くあらわれています。 かといって、九州は反中央一辺倒であるのではありません。 中央直結思考も持ち合わせていましたので、時として日和見主義にもみえました。 鎌倉時代最末期の菊池武時の鎮西探題襲撃事件のとき、菊池武時が1333年3月に決起したにもかかわらず、一味同心を契ったはずの少弐氏や大友氏は時期尚早とみて約束を履行しませんでした。 弱体化したとはいえ、いまだ健在の鎌倉幕府に反旗を翻しても勝ち目はないだろうとの打算からです。 しかし同年5月には幕府をめぐる状況が一変したため、少弐・大友・島津の三雄を含む九州の武士たちは大挙して鎮西探題を攻撃して壊滅に追い込みました。 このような基本的性格を持つ九州を支配下に置くことの重要さを、時の支配者たちは十分に認識していました。 後醍醐天皇もその一人で、窮地に立たされた南朝を盛り立てるためには九州をとりこむのが最良の手段であることに気づいたのです。 後醍醐天皇が皇子の懐良を九州に派遣した最大の理由はここにあったといってよいということです。 九州は後醍醐天皇の系譜をひく南朝勢力の最大の支持基盤であったことが特筆されます。 全国規模でみると、征西将軍官懐良親王率いる九州南朝軍は南朝勢力の屋台骨としての役割を担いました。 この九州南朝勢力のありようを最も直接的にうかがわせる一級史料が”五條家文書”です。 この文書は、福岡県八女市に所在する五條家に伝来する古文書群の称で、現在、全365通の古文書が全16巻の巻子本に表装されています。 この文書を抜きにして、九州の南北朝を語ることはできません。 日本列島を構成する島々のなかで、九州は独特の歴史と文化をはぐくんできました。 それは中央から遠く離れた九州が地域的に完結しているという地形的な特質もさることながら、地理的にアジア大陸と最も近く、海外の文化といちはやく接触しやすいという地政学的な利点にもよるでしょう。 そのような長い歴史を通して育まれた九州武士たちの主体性が、京都や鎌倉におかれた朝廷や幕府などの中央権力を相対化することを可能にしたのかもしれません。序 章 懐良親王と九州の南北朝時代/第一章 懐良親王の九州下向/第二章 伊予国忽那島時代・薩摩国谷山時代/第三章 肥後国菊池時代/第四章 追風としての観応の擾乱/第五章 大宰府征西府の全盛時代/第六章 征西府の衰滅過程/第七章 懐良親王の精神世界/終 章 九州南朝の終焉/参考文献/懐良親王略年譜