二条良基(感想)
二条良基は1320年生まれ、五摂家の一つ二条家の当主で、北朝に仕えた公家です。 官位は従一位太政大臣に昇り、摂政・関白に4度(数え方によっては5度)にわたり補され、晩年は准三后の栄誉を年得て、文字通り位人臣を極めました。 ”二条良基”(2020年2月 吉川弘文館刊 小川 剛生著)を読みました。 初め後醍醐天皇に仕えたがのち北朝に仕え、関白,太政大臣,摂政などを歴任しながら、博学多識で南北朝時代の歌人連歌作者として知られる二条良基の生涯を紹介しています。 文才にも恵まれ、幅広い分野にわたり著作を遺しています。 和歌では頓阿ら和歌四天王を重用し、歌道師範家に代わり指導者となりました。 また、連歌の発展には最も尽力し、救済ら連歌師と手を携え、中世を代表する詩として大成させました。 小川剛生さんは1971年東京都生まれ、1993年に慶應義塾大学文学部国文学専攻を卒業し、1995年に同文学部修士課程を修了し、1997年に同大学院博士課程を中退しました。 1997年に熊本大学文学部講師、2000年に同文学部助教授となり、同年、二条良基の研究で文学博士の学位(慶応義塾大学)を取得しました。 専攻は中世和歌史で、2009年に慶應義塾大学文学部准教授、2016年に慶應義塾大学文学部教授となり現在に至ります。 2018年に兼好法師の研究で第3回西脇順三郎学術賞を受賞しました。 二条良基は1327年に8歳で元服して正五位下侍従となり、わずか2年で従三位権中納言に昇進しました。 13歳の時に元弘の変が発生して後醍醐天皇は隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われました。 このため、二条家は鎌倉幕府より断絶を命じられる状況に追い込まれましたが、翌年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に復帰して、建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕えました。 二条道平は近衛経忠とともに内覧・藤氏長者として建武政権の中枢にあり、新政が実質上開始された1333年に姉の栄子が後醍醐天皇の女御となり、良基も14歳で従二位に叙されました。 1335年に父・道平が急逝し、翌年に足利尊氏によって政権を追われた後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を成立させました。 叔父の師基は南朝に参じましたが、この年17歳で権大納言となっていた良基もまた天皇を深く敬愛していたにもかかわらず、後見であった曽祖父師忠とともに京都にとどまり、北朝の光明天皇に仕えました。 光明天皇もこれに応えるべく、1338年に良基に左近衛大将を兼務させ、その2年後に21歳で内大臣に任命しました。 内大臣任命の前年には母を、任命の翌年には曽祖父・師忠を相次いで失いましたが、その間にも北朝の公卿として有職故実を学ぶとともに、朝儀・公事の復興に努めました。 1343年に右大臣に任命されましたが、同時に左大臣には有職故実の大家で声望の高い閑院流の洞院公賢が任じられました。 一条経通・鷹司師平と前現両関白はともに公賢の娘婿であり、良基と公賢は北朝の宮廷において長く競争相手となりました。 1345年に良基最初の連歌論書である『僻連抄』が著されました。 南北朝時代、朝廷は実権を喪失し、関白の職も虚位であったとされます。 二条良基は公家政治家としてより、文学史上の功績によって記憶されています。 しかし、良基は政治的な無力感から文学に逃避したような人物ではありません。 長く執政の座を占めた良基は、南朝の攻撃、寺社の強訴、財政の逼迫といった危機に絶えず対処しなければなりませんでした。 こうした北朝の危機は、室町幕府の内証に原因があり、公家にはどうすることもできませんでした。 しかし、良基は政務への意志をいささかも失わず、足利義満ら室町幕府要人と提携することで山積する問題に対処しようとし、ついには公武関係の新しい局面を拓きました。 このことが伝記の主要なテーマです。 1346年に27歳で光明天皇の関白・藤氏長者に任命され、2年後の崇光天皇への譲位後も引き続き留任しました。 1351年に足利氏の内部抗争から観応の擾乱が起こり、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、北朝天皇や年号が廃止され、良基も関白職を停止されました。 光明・崇光両天皇期の任官を全て無効とされて、良基は後醍醐天皇時代の従二位権大納言に戻されましたが、公賢は改めて左大臣一上に任命されました。 南朝では既に二条師基が関白に任じられていて、良基の立場は危機に立たされました。 良基は心労によって病に倒れましたが、それでも 御子左流の五条為嗣とともに南朝の後村上天皇に拝謁を計画するなど、当初は南朝政権下での生き残りを視野に入れた行動も示しました。 しかし、1352年に京都を占領した南朝軍が、崇光天皇・光厳・光明両上皇、皇太子直仁親王を京都から連行したため足利義詮は和議を破棄し、直仁親王を後村上天皇の皇太子にして両統迭立を復活させる和平構想も破綻しました。 義詮は光厳上皇の母西園寺寧子を治天に擬し、その命によって新たに崇光の弟弥仁王を後光厳天皇として擁立して北朝を復活させる構想を打ちたてました。 足利将軍家の意向と勧修寺経顕の説得を受ける形で、良基は広義門院から関白還補の命を受け、昨年の南朝側による人事を無効として崇光天皇在位中の官位を戻しました。 和平構想に失敗した公賢とその縁戚の一条経通・鷹司師平らの政治力は失墜し、政務は年若い新帝や政治経験の無い広義門院を補佐する形式で、良基と九条経教・近衛道嗣ら少数の公卿らによって運営されました。 1353年に南朝側の反撃によって京都陥落の危機が迫ると、足利義詮は後光厳天皇を良基の押小路烏丸殿に退避させ、そのまま天皇を連れて延暦寺を経由した後美濃国の土岐頼康の元に退去していきました。 押小路烏丸殿を占拠した南朝軍は良基を後光厳天皇擁立の張本人として断罪し、同邸に残された二条家伝来の家記文書は全て没収されて叔父師基の元に送られました。 そのような状況でありましたが、良基は病身を押して後光厳天皇のいる美濃国小島へと旅立ち、先に小島にいた叔父の今小路良冬に迎えられ天皇に拝謁しました。 垂井に移った天皇や良基を迎えに尊氏が到着し京都に復帰し、後光厳天皇は以後、良基と道嗣を重用するようになり、京都に留まっていた経通や公賢は二心を疑われていよいよ遠ざけられました。 1354年暮に南朝軍が京都を占領し天皇や良基は近江国に退避しましたが、これは短期間に終わりました。 これ以後は南朝の攻勢も弱まりやや落ち着いた時期を迎え、1356年に救済・佐々木道誉らとともに、『菟玖波集』の編纂にあたり、翌年春までに完成し准勅撰となりました。 1357年に南朝に奔った元関白近衛経忠の子・実玄を一乗院門主から排除しようとして、北朝側の大乗院が引き起こした興福寺の内紛において、良基が藤氏長者として裁定にあたりました。 裁定は経忠の系統を近衛家の嫡流として扱い、かつ自分の猶子・良玄を実玄の後継者とするものであったため、興福寺や近衛道嗣、洞院公賢、さらに室町幕府の不満が高まりました。 実玄を支持する一乗院の衆徒が奈良市中で大乗院派に対する焼き討ちを行ったのを機に、1358年に次期将軍に内定していた足利義詮が関白の更迭を求める奏請を行いました。 良基は関白就任から13年目にして窮地に陥り、辞意を表明し正式に九条経教と交替しました。 良基は関白の地位を追われたものの、依然として内覧の職権を与えられ、自ら太閤を号して朝廷に大きな影響力を与えました。 また、文化的な活動にも積極的に参加し、1363年に二条派の歌人頓阿とともに著した『愚問賢注』が後光厳天皇に進上され、次いで足利義詮にも贈呈されました。 関白職は九条経教から近衛道嗣に移り、天皇側近としての地位を固めつつありましたが、若い道嗣は良基の敵ではなくやがて辞任して、良基が関白に還補されました。 1366年に長男師良が内大臣に任じられ、三男は一条房経急逝によって断絶した一条家の後継者となり経嗣と名乗りました。 1367年に義詮の要請によってやむなく鷹司冬通に関白を譲りましたが、良基の朝廷内部での権勢は相変わらずでした。 この年の暮れに義詮が急死し、足利義満が室町幕府三代将軍となり、細川頼之が執事となりました。 1369年に良基の長男・師良が関白に就任し、1371年に後光厳天皇は後円融天皇に皇位を譲りました。 同年に興福寺の内紛が再燃し、興福寺衆徒は内紛の元凶は実玄を庇護した良基にあるとして、1373年に良基を放氏処分にしました。 しかし、良基は謹慎するどころか春日明神の名代である摂関の放氏はありえないと述べて全く無視し、翌年に後光厳上皇が危篤に陥ると直ちに参内して善後策を協議しました。 興福寺衆徒を非難し続けた後光厳上皇の崩御が衆徒を勢いづけ、後円融天皇の即位式を直ちに行う必要性に迫られた朝廷と幕府は要求の全面受け入れを決定し、良基も続氏となって神木も3年ぶりに奈良に戻りました。 人間として見たとき、良基の内面にはすこぶる複雑なものがあったようです。 北朝に信任されましたが、生涯、後醍醐天皇を敬慕しました。 最高位の公家であるのに、地下の連歌師、また、佐々木導誉ら婆娑羅大名とも親しく交際しました。 王朝盛代を理想とし、朝廷儀式の復興に意欲を燃やすいっぽうで、言い捨ての座興に過ぎない連歌を熱愛し、雑芸にも理解を示しました。 近年、初期室町幕府の研究が深化し、将軍権力の内実が朝廷との関係から再考されています。 これを踏まえた、精緻な観察が必要です。 また、当時の学芸の諸分野において、良基と交流を待った人物はたいへん多いです。 これも堂上から地下、あるいは公家・武家・禅林にわたっており、同時代への強い影響力を証しますが、ここでは俯瞰的な評価が求められるでしょう。第1 二条殿/第2 大臣の修養/第3 偏執の関白/第4 床をならべし契り/第5 再度の執政/第6 春日神木/第7 准三后/第8 大樹を扶持する人/第9 摂政太政大臣/第10 良基の遺したもの