広辞苑はなぜ生まれたか-新村出の生きた軌跡(感想)
「広辞苑」は岩波書店が発行している中型の日本語国語辞典で、編著者は新村出、新村猛です。 昭和初期に出版された「辞苑」(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を広辞苑と改めて出版されました。 ”広辞苑はなぜ生まれたか-新村出の生きた軌跡”(2017年8月世界思想社刊新村恭著)を読みました。 1955年に初版が刊行され、60年以上をかけて改訂が重ねられてきて、いまや「国語+百科」辞典の最高峰と言われる「広辞苑」の、来歴と編者の新村出=しんむらいずるを紹介しています。 最新版は2018年1月発行の第七版です。 中型国語辞典として三省堂の「大辞林」と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多いです。 収録語数は第七版で約25万語で、日本国内から世界の社会情勢や約3,000点の図版、地図などを収録し、百科65501事典も兼ねる働きを持っています。 新村恭さんは1947年京都市生まれ、新村出は祖父にあたります。 名古屋で育ち、1965年に東京都立大学人文学部に入学、1973年に同大学院史学専攻修士課程を修了し、岩波書店に入社しました。 人間文化研究機構で本づくりの仕事に携わり、現在はフリーエディターで、新村出記念財団嘱託となっています。 新村出は1876年山口市生れ、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男でした。 「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名されたといいます。 1889年に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室・新村信の養父にあたり、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。 静岡尋常中学、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学文科大学博言学科を卒業しました。 在学中は上田萬年の指導を受け、この頃からの友人として亀田次郎がいて、のちに『音韻分布図』を共同して出版しました。 国語研究室助手を経て、1902年に東京高等師範学校教授となり、1904年に東京帝国大学助教授を兼任しました。 1906年から1909年までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事しました、 1907年に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となりました。 エスペランティストでもあり、1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表としてJEA代表の黒板勝美とともに参加しました。 1936年に定年退官まで,同大学の言語学講座を28年間担当しました。 1910年に文学博士の称号を得,1928年に帝国学士院の会員に推され、退官後は京大名誉教授を務めました。 1933年に宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年に正メンバーに選ばれ、同年1月に昭和天皇に国書の進講を行いました。 1967年に90歳で亡くなり、没後にその業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられました。 南蛮交易研究や吉利支丹文学、は平凡社東洋文庫などで再刊されています。 またその業績を記念し、1982年から優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されています。 終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年に初版が発刊された「広辞苑」の編者として知られていますが、どんな人で何をしたかはほとんど知られていません。 長男は広島高等学校教授を務めた新村秀一さん、次男は名古屋大学教授を務めたフランス文学者の新村猛さんです。 孫には、大谷大学教授を務めた西洋史学者の新村祐一郎さん、桜美林大学教授を務めた中国文学者の新村徹さん、編集者(岩波書店等)の新村恭さんがいます。 著者は、祖父・出の伝記は、本来、兄・徹が書くはずでしたが、1984年に48歳で不慮の死をとげたため、自分が書くことになったといいます。 祖父・出については、伝記はもとより研究者がそのある面をとりあげた本も一冊としてありません。 変転も激しい長い年月を生き、突出した角がなく、茫洋としてとてつもなく広い事績をのこしたため、書くのが難しく書き手がいなかったのではないでしょうか。 自分は研究者でももの書きでもありませんが、祖父・出を見送ったのが20歳のときで、新村家の空気のなかで育ち生きてきました。 また長く出版のしごとをしてきて、辞書づくりについても肌で知っています。 幸いにして、まだ整理・公開するにいたっていないし、祖父・出の日記や書簡等をみることができる立場にあり、新村家の生の声を伝えながら、「広辞苑」の物語を書くことに挑戦しようと思い立ったとのことです。 「広辞苑」につながる辞書の刊行は、祖父・出の意図によるものではなかったそうです。 それは、信州出身の出版人、岡茂雄の企画でした。 あらためて、出版社の存在の大きさを考えさせられます。 とくに、辞典の場合は、単行本以上にその位置が重要でした。 岡は、小出版社・岡書院をたちあげ、大正後期から、人類学・民俗学・考古学を中心に活動を開始していました。 新村出のものは、1925年に『典籍叢談』を1930年に『東亜語源志』を出版しています。 岡は出に、中高校生あるいは家庭向きの国語辞典の「御著作」を願いでました。 岡の申し入れにたいして出は即座に、「そのようなものには興味をもたない」とことわりました。 しかし、岡は出の温厚な人柄に惚れ込み、父親のように慕っていたため、容易に引き下がらずに食い下がり、そしてついに条件付きの応諾を得ました。 その条件は、昔、東京高等師範で教えたことがあり、京都府立舞鶴高等女学校の教頭を退いて福井に隠棲している溝江八男太が手伝ってくれるなら引き受けてもよいということでした。 溝江は、大正後半期に『女子文化読本教授資料』などの編著書を刊行していて、出の蔵書のなかにもあります。 岡は出とは、かつての教え子というだけの関係でなく、国語教育・教材を通じて出と親しかったと思われます。 出が溝江を指名したのは、岡の「中学・高校生向け」との要請から当然ともいえます。 しかし、中高校生をこえて一般向けの辞書もふくめての協力者としても、研究者や研究者の卵よりも、一定の経験をもった中学・高校の国語の教師を中心に据えるほうが、実際的でよいとの考えが出にはありました。 出の意向を受けて、岡は溝江家を訪問し、溝江の百科項目を含めたいとの希望を容れて三者の合意がなりました。 溝江は、能勢朝次、三ヶ尻浩、久保寺逸彦、後藤興善、今井正視、竹内若子らの協力を仰ぎ、作業はスタートしました。 岡は、予定していたのよりもはるかに大部になるので、小出版社の岡書院では難しいと思い、他社との共同あるいは移譲を考えました。 まず、同郷の先達、岩波茂雄に伺いをたてましたが、岩波にはいったんことわられました。 岡・新村の辞書は、一方で移譲を申し出る出版社がありましたが、祈り合いがつかずしているうちに、渋沢敬三の仲介によって、博文館から刊行されることになりました。 アチックミューゼアム、常民文化研究所をつくった渋沢は、民俗学を出版の核においていた岡と親交がありました。 博文館は当時の大手出版社であり、取次大手の東京堂、共同印刷、広告店、製紙会社、教科書会社などを傘下に収めていました。 岡は、提示した条件を博文館がすべてのんだことで決断し、新村出の了解を得るべく、渋沢とともに京都に向かいました。 岡は実質的な共編者となり、分身となって尽力しました。 そして、順調な進行をみた『辞苑』は、1935年2月5日に発行され、A5判本文2286頁、約28万語収録、定価4円50銭(発売時特価3円20銭)、発行・博文館、組版・開明堂、印刷・共同印刷でした。 末尾には総画引きによる漢字の難訓音索引、常用漢字表、品詞の活用表などが付載され、表紙は博文館の希望で赤色で、当時は「赤本」とも呼ばれました。 『辞苑』は発売前に、注文が多いことから増刷が決まり、好評のうちに刊行されました。 岡は、博文館からの小型国語辞典刊行の希望を伝え、これは出と溝江の反対はありましたが、刊行の方向となりました。 この学習用に、よりウェイトをおいた小型の国語辞典は、1938年に『言苑』として刊行されました。 1941年の改訂が行われるよていでしたが、刊行できず、のびのびになって、完成に近くなった時は戦局が悪化し、博文館が確保していた用紙も空襲で灰燈に帰し、共同印刷の活字銅版も爆撃で失われる事態となりました。 改訂版の刊行は中止となりましたが、完成間近の校正刷(ゲラ)があり、後の「広辞苑」の基となりました。 敗戦によって事態は一変し、アメリカの軍事支配となりGHQは日本の民主化のために、財閥解体の方針をもっていました。 大事業体となっていた博文館は解体され、戦争協力出版の罪も問われる方向となりました。 新村猛は岩波書店で改訂を引き受けてもらうべく行動を開始しました。 猛は、岩波の幹部職員と相談、合意を得たうえで鎌倉で静養中の岩波茂雄を訪ね、友人の久野収の仲介もあって岩波の承諾を得ました。 1948年に、岩波書店のなかに新村出辞書編纂室ができました。 『辞苑』のときは出が溝江を指名しましたが、今回は出と岩波が協議しながら編者側のスタッフを決めました。 編纂主任には、冨山房で辞書づくりの経験のある国文学者の市村宏が就任しました。 出の日記には、岩波書店の人たちが折にふれて訪ねてきたことが記されています。 出が学士院の総会等で上京の折には、必ず岩波書店に立ち寄り、多くの岩波の人、関係者と語り合っています。 「広辞苑」は、当初は、新村出の「辞海」「辞洋」がよいとの希望で、仮に「辞海」とされていました。 しかし、1952年に、新たに金田一京助編「辞海」が三省堂から刊行されるに及んで、別の名称を考えなければならなくなりました。 岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂しました。 1954年に、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると判明しました。 そこで、「新辞苑」の名を撤回して、「広辞苑」として登録することになりました。 戦後生じた大きな社会情勢の変化、特に仮名遣いの変更や新語の急増などにより、編集作業はさらに時間を要することになりました。 新村父子をはじめとする関係者の労苦が実り、1955年5月25日に岩波書店から「広辞苑」初版が刊行されました。 以後、1969年第二版発行、1976年第二版補訂版発行、1983年第三版発行、1991年第四版発行、1998年第五版発行、2008年第六版発行、2018年第七版発行という経過をたどっています。 著者の希望は三つ、あとに続く世代に新村出の生涯と人となりを知ってもらうこと、研究者の為した跡と生きざまを読んでもらいたいこと、日本社会の大きな変化の歴史を味わってもらいたいこと、であるといいます。1新村出の生涯(萩の乱のなかで生を享けるー父は山口県令/親元離れて漢学修業ー小学校は卒業してない/静岡は第一のふるさと/文学へのめざめ、そして言語学の高みへー高・東大時代/荒川豊子との恋愛、結婚/転機、欧州留学/水に合った京都大学ー言語学講座、図書館長、南蛮吉利支丹/戦争のなかでの想念/京都での暮らしー晩年・最晩年/新村出が京都に残したもの)/2真説「広辞苑」物語(『辞苑』の刊行と改訂作業/岩波書店から「広辞苑」刊行へ/「広辞苑」刊行のあとに)/3交友録(徳川慶喜の八女国子ー初恋の人/高峰秀子/佐佐木信綱/川田順/そのほかの人びと)広辞苑リブレポーチ 第七版 (岩波書店) 4426302広辞苑帆布トート 第七版 (岩波書店)4019403