トランパー 伊予吉田の海運偉人伝(感想)
幕末から太平洋戦争までの近代史は、わが国の歴史上かつてない大変革が起こり、幾多の戦争が続いた時代でもありました。 人が歴史をつくり、人はその歴史によって栄枯盛衰の道をたとり、海運の歴史も様々な人物が登場し、ドラマチックに物語が展開しました。 ”トランパー 伊予吉田の海運偉人伝”(2016年1月 愛媛新聞サービスセンター刊 宮本 しげる著)を読みました。 勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人で、山下汽船・山下財閥の創業者として知られ海運王と呼ばれる、山下亀三郎についてその生涯を紹介しています。 江戸期の海運は当初鎖国制度により、大型船の建造は制限され、小型船による沿岸航路が中心でした。 豪商の河村瑞賢は、仙台から江戸への「東回り航路」や酒田から大阪、江戸への「西回り航路」を開発し、江戸後期は弁財船が全国で四百隻以上も動いていました。 当時わが国は、世界でも有数の内航海運大国であったといえましょう。 トランパーとは、海運用語で船会社が運航する不定期船サービスの俗称で、車に例えれば、客の希望に応じて、臨機応変、何処へでも走るいわばタクシーです。 その後、幕末の動乱期には旧来の帆船から、近代的な蒸気船へと大転換し、わが国の近代国家建設と共に、海運も変革の時代を迎えました。 新政府が掲げた富国強兵政策で海運・造船がクローズアップされ、船舶の大型化により外航海運が急成長しました。 その草創期に、山下亀三郎は群雄割拠する海運界ヘデビューしました。 宮本しげるさんは1949年宇和島市吉田町生まれで、山下亀三郎、村井保固、清家吉次郎のいわゆる吉田三傑が創設した吉田小学校、吉田中学校、吉田高等学校を卒業しました。 1967年にジャパン近海に入社し、親会社の合併等で社名は、ナビックス近海、商船三井近海、商船三井内航と変わりました。 2008年に船会社勤務を終え、内航大型船輸送海運組合の理事・事務局長に就任し、2014年に退任しました。 山下亀三郎は1867年伊予国宇和郡喜佐方村、現、宇和島市吉田町の庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれました。 宇和島の旧制南予中学校、現、愛媛県立宇和島東高等学校に入学しましたが、1882年に同校を中退し出奔しました。 大阪に出ましたが、家出少年を雇ってくれるところはなく、京都の友人を頼って祇園清井町の下宿宿に世話になり、小学校の助教員を務めました。 京都の生活で、新島襄を助けて同志社を設立した山本覚馬と出会い、山本が主宰する私塾にも足を運ぶようになりました。 山本の勧めで東京に出て、明治法律学校、現、明治大学に入学しました。 ここには、明治民法の起草者であった法学者の穂積陳重が出講していましたので、個人的に法律学の教授を受けました。 「ドロ亀」というあだ名を持ち、後に自ら無学であるかのように記していますが、実際は勉強にも精励した一面もありました。 22歳の時に、明治法律学校を退学して、富士製紙会社に入りましたが長続きせず、次に大倉孫兵衛紙店の店員となりました。 その後、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店などを転々としました。 1892年に横浜出身の朝倉カメ子と結婚しましたが、翌年に池田商店は倒産しました。 山下は1894年に、横浜太田町に洋紙売買の山下商店を始めましたが、事業はうまくいかず店をたたみました。 当時は日清戦争の時期にあたり、石炭業界は好景気に沸いていたため、竹内兄弟商会の石炭部に入り、石炭輸送の必要から初めて海運業と接しました。 1897年に竹内兄弟商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と変えました。 1903年に初めて船主になり、手付けの1万円を支払い、残りの11万円の金策に奔走し、保険会社、取引先と第一銀行横浜支店長心得の石井健吾から調達しました。 手に入れた英国船ベンベニニー号(2,373トン)を喜佐方丸と命名し、海運業に乗り出しました。 船舶経営の経験に乏しい山下は、横浜・上海航路の事業に着手しましたが、最初は燃料代にも事欠く有様でした。 しかし、同じ愛媛県出身の海軍軍人・秋山真之から、日露開戦近しの情報を入手していました。 山下は喜佐方丸を購入すると早速、元伊藤博文首相秘書官だった近親の古谷久綱を通じて、1903年に徴用船の指定を受けました。 納期までに無事に喜佐方丸を海軍に引き渡し、1904年に第二喜佐方丸を購入し、直ちに海軍に徴用船として提供しました。 さらに他社の貨物を手配し、他社船でこれを運送する海運オペレーションの分野にも進出しました。 日露戦争後、1907年に入ると日本は深刻な戦後不況に突入し、山下はこの影響をもろにうけ、さらに北海道の木材事業にも失敗し、数百万円の負債を背負いました。 山下は菱形償却法という返済方式を考え、最初は少しずつ利益が出るようになったら多く返済すると債権者を説得し、20年の菱形償却返済を認めさせました。 1909年以降、外航海運が好転し海運業の発展により、この負債をわずか7年で完済しました。 1911年に資本金10万円で組織を合名会社に変更して山下汽船合名会社を発足し、本店は東京市日本橋区北島町、現、東京都中央区日本橋茅場町に移転し、支店も神戸に開設しました。 1914年に第一次世界大戦が勃発したことにより、山下汽船が繁盛することとなりました。 1917年に山下汽船合名会社が資本金1000万円の山下汽船株式会社に改組となり、1922年に山下汽船鑛業株式会社と改称しました。 1924年に名称を山下汽船株式会社に戻し、1941年で山下汽船株式会社は55隻のオーナーとなりました。 1942年に長男の太郎が二代目社長に就任し、その後、海運業だけでなく、広く財界、官界さらに軍部の要人と交際しました。 1943年には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正昭和期の代表的政商と称されました。 政府関係の委員にも就任し、第二次世界大戦末期には行政査察使に就任し、北海道視察に行った亀三郎は、病を得て1944年に死去しました。 その後、1964年に新日本汽船と合併して、株式会社山下新日本汽船となり、それ以降、合併を繰り返し、現在、株式会社商船三井が存続会社です。 亀三郎は主宰した山下汽船を世界有数のトランプオペレーターにし、日本海運の伸展と船権拡張に寄与しました。 また、山下汽船から多くの人材が輩出され、いわゆる山下学校と称されました。 また、郷里を始め各地に学校を設立するなど社会事業にも力を尽くしました。 明治から昭和初期にかけて、日本郵船と大阪商船の2社が飛びぬけていましたが、太平洋戦争開戦時において、山下汽船はこの2社に迫る会社となっていました。 しかし敗戦により財閥解体で、山下汽船は1946年に第二次持株会社指定、1947年に第五次持株会社指定を受けました。 本書は、幕末から明治、大正、昭和、平成の今日まで約150年にわたる永い物語です。 「がいな男」の「がい」というのは、愛媛南予地方の方言ですごい、たいへんという意味で、「がいな男」とは海運王と呼ばれた山下亀三郎のことです。 手掛けた当時ベンチャービジネスだった石炭や海運は、新政府が掲げる富国強兵、殖産興業の波に乗り、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。 ですが、がいな男に大きな試練が待っていて、1943年の著書の表題にある「沈みつ浮きつ」の人生はまだ始まったばかりでした。 その後、亀三郎の不定期船サービスは、世界の7つの海を席巻し、YAMASHITA LINEは、海運のブランドとなりました。 山下亀三郎が「トランパーの雄」と呼ばれた所以であり、亀三郎のもとには、白城定一、石原潔、浜田喜佐雄ら優秀な若者が、いわゆる「山下学校」に集い丁稚から叩き上げられました。 ですが、若者の一人、喜佐雄は1930年に山下汽船を去りました。 筆者は、喜佐雄がなぜ大恩のある亀三郎のもとを離れたのか、それが大きな疑問でだったそうです。 この離反劇の謎に迫るのが、執筆する一つの動機でもあるといいます。 筆まめだった喜佐雄は、赤裸々にわが人生を綴り多くのアーカイブを残しました。 筆者はこれらの文献をひもとき、亀三郎生誕150年の2017年を記念して本書を書き下ろしました。第1章 明治の山下亀三郎/第2章 大正の亀三郎と店童・浜田喜佐雄物語/第3章 昭和の亀三郎と大同海運設立/第4章 戦後の山下汽船と大同海運/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]トランパー—伊予吉田の海運偉人伝 山下亀三郎と山下学校門下生 [単行本] 宮本 しげる【中古】 海運王 山下亀三郎 山下汽船創業者の不屈の生涯 /青山淳平【著】 【中古】afb