赤星鉄馬 消えた富豪(感想)
赤星鉄馬は1883年東京生まれ、海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男六女の長男)で、莫大な遺産を相続した実業家です。 ”赤星鉄馬 消えた富豪”(2019年11月 中央公論新社刊 与那原 恵著)を読みました。 赤星鉄馬は、武器商人として日清戦争の頃に巨万の富を築いた父親から巨万の富を継ぎ、日本初の学術団体を設立しブラックバスを芦ノ湖へ移入し日本ゴルフ界の草創期を牽引しました。 にもかかわらず、何も書き残さず静かに姿を消したその生涯を紹介しています。 赤星家の財産は弥之助が築いたもので、弥之助は1853年生まれ、磯長孫四郎の子で赤星家の養子となり、東京に出て金貸し業その他の事業に関係して財をなしました。 鉄馬は1901年に東京で中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学しました。 留学中にペンシルベニア大学卒業後、1910年に27歳で帰国し、大阪の開業医の娘と結婚しました。 政府関係者に随行して、夫婦で世界一周の新婚旅行をしました。 父親の死去にともない、家業を継ぎました。 与那原恵さんは1958年東京都生まれ、1996年に雑誌『諸君!』掲載のルポで、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞しました。 2014年に第2回河合隼雄学芸賞、第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞しました。 赤星鉄馬は知る人ぞ知る戦前の富豪ですが、名前を聞いてすぐに分かる人は多くありません。 鉄馬の存在は、これまで日本の近現代史の中でほとんど知られてきませんでした。 鉄馬は、趣味から派生したブラックバスの研究書を除いて、日記や回想録といった文章を一切書き残さず、インタビューにも応じなかったからです。 著者が鉄馬の名前を知ったのは、前著”首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像”を執筆中のことだったといいます。 鎌倉芳太郎は大正末期から昭和にかけて琉球芸術の調査を行い、琉球文化全般の膨大な史料を残した人物です。 カメラとガラス乾板を携えて大正期から沖縄本島・離島、奄美大島各地を巡り、風景や建造物、工芸品など千数百点の写真を撮影しました。 それはいまも当時の沖縄を記録した貴重な画像となっています。 芳太郎が登場した時期の沖縄では、のちに沖縄学と名付けられる研究が始まっていましたが、本土では注目されていませんでした。 2019年10月末に火事で焼失した首里城は、大正末、取り壊しが決定していましたが、それを阻止できたのは芳太郎の働きかけもあったからです。 国宝指定されたものの沖縄戦で失われ、戦後は琉球大学の建設によって、城壁などの一部がかろうじて残されているだけでした。 その首里城は、1992年に復元され、以後、首里城は四半世紀をかけて沖縄を象徴する文化遺産として受け入れられていきました。 芳太郎の足跡を取材していた著者は、1923年に芳太郎が啓明会という学術財団から多額の資金提供を受けている資料を発見しました。 その頃の芳太郎は全くの無名の青年で、まだ実績のない在野の研究者にすぎませんでした。 啓明会は、芳太郎が行おうしていた琉球芸術調査に対して、今のお金に換算して3回にわたり総額約2000万円もの調査費を支給していました。 そのような時代に、無名の在野の研究者に2000万円を出した富豪がいたということがすごく不思議だったといいます。 啓明会は基礎的な文献や資料の収集、研究に重きを置いて助成活動を行っていました。 学術界の重鎮のほか、無名の研究者や女性研究者も支援するなど、当時においてかなり先進的な取り組みをしていました。 記録を調べてたどり着いたのは、啓明会は鉄馬から100万円(現在の約20億円に相当)の提供を受けて設立された財団という事実でした。 啓明会は近代日本の学術研究の基礎を築き、設立当時は国内の全研究助成費の5分の1を占めるほど大きな存在感を示しました。 ですが、鉄馬は財団の名に赤星の名を使用させず、運営にも親族を一切かかわらせなかったため、すぐには名前が出てきませんでした。 資金を提供した赤星鉄馬という人物は謎のままで、資料には具体的なことが何も書かれていません。 いったいこの人は何者なんだろう、とがぜん興味が湧いてきたといいます。 鉄馬は1917年に父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却しました。 後に国宝となった物件が多数含まれていたことから、赤星家売立と呼ばれました。 総額510万円以上にのぼる高額の落札額を記録し、当時の最大規模の売立となったそうです。 1918年に、文部省管轄としては日本で初めての学術財団となる財団法人啓明会を設立し、美術品売却益の5分の1に相当する金額を奨学資金として投資しました。 資金は出しましたが、赤星自身はこの財団の運営に一切関わらず、親族にも関わらせませんでした。 1913年に設立された、赤星家の資産運用保管の目的の泰昌銀行の頭取でしたが、1920年に松方巌率いる十五銀行に経営権を譲渡しました。 1923年時点では、千代田火災保険の監査役だけが肩書きで、新聞では、一向に事業という様な事業をしてないと評されました。 1923年の関東大震災で麻布鳥居坂の邸宅が倒壊し、震災後は東京府北多摩郡武蔵野村、現在の武蔵野市に転居しました。 吉祥寺の一角で、成蹊大学前のカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会の敷地です。 当初は、アメリカから持ってきた住居を移築して住んでいました。 鳥居坂の邸宅跡には、国際文化会館が建てられています。 1925年に、公害や乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川湖沼の回復を目的に、味がよく釣って面白い魚という触れ込みで芦ノ湖へオオクチバス(ブラックバス)を移入しました。 1934年に、アントニン・レイモンド設計の新居が完成しました。 外観は修道院の門から見ることができ、邸宅の敷地は3万坪で、一部は成蹊大学となっています。 鉄馬を追いかけるように旅をするうちに、親族や身近にいた人たち、交錯した人物など、思わぬ人びとがつぎつぎと姿をあらわしたそうです。 それとともに、幕末から明治、大正、そして昭和の時代が浮かびあがってきました。 本人は釣りに関することを除いて書きのこしていませんが、それでもさまざまな資料をあたるうちに、その生涯が見えてきました。 絶大な力を待った野心的な父弥之助に対して、複雑な思いも抱いたでしょう。 鉄馬は通算8年におよんだ米国留学の体験が、内面に大きな変化をもたらしたと思われます。 さらに、兄のような存在の樺山愛輔の尽力もあって、啓明会が誕生し、近代学術研究の蓄積という大きな遺産が今日にのこされました。 愛輔は伯爵樺山資紀の長男で、13歳でアメリカに留学し、1885年にコネチカット州ウェズリアン大学に入学、その後、1887年にアマースト大学に編入しました。 アマースト大学卒業後、ドイツ・ボン大学に学びました。 帰国後、国際通信、日英水力電気、蓬来生命保険相互などの取締役、千歳火災海上再保険、千代田火災保険、函館船渠、大井川鉄道各社の重役を務めました。 1922年襲爵、1925年貴族院議員、1930年ロンドン軍縮会議日本代表随員となりました。 太平洋戦争中、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して、終戦工作に従事しました。 1946年に枢密顧問官に就任し、翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止、公職追放となりました。 その後、グルー元駐日米国大使から寄せられた基金を基に社会教育事業資金グルー基金創設に尽力しました。 鉄馬の趣味は馬の研究と釣りとバラの栽培で、新橋の花柳界では粋人として知られました。 朝鮮京城附近に広い牧場、成歓牧場を所有し、道楽として馬を飼養しました。 吉田茂や、白洲正子の父でもある実業家の樺山愛輔、三菱財閥の4代目・岩崎小弥太といった重鎮と深い親交を持ちました。 鉄馬は、莫大な資産を受け継いだゆえの苦悩もあったでしょう。 富がなくても不幸があるように、富があっても多くの不幸を避けることはできません。 鉄馬の資産は後世のために有意義に使われ、やがて赤星家の資産はあらかた失われ、自身は静かに消えていったのです。 鉄馬が人生を満喫したのは、米国留学時代に集中していたと思われます。 のちの時代状況も相まって心痛も多い日々を慰めたのは、釣り糸を垂れる時間であり、ときに水面を眺めながら、自身の人生を振り返ることもあったでしょう。 その人を記憶する人がいるかぎり、また没後であっても、その人とあらたに出会う人がいるかぎり、その人は時代を超えて生きるのです。第1章 父、弥之助/第2章 武器商人/第3章 米国留学/第4章 華麗なる人脈/第5章 啓明会/第6章 釣りと建築/第7章 恐慌と暗殺の時代/第8章 最期の日々[http://lifestyle.blogmura.com/comf rtlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 【中古】赤星鉄馬 消えた富豪 (単行本)/与那原 恵【中古】 釣りの世界 付赤星鉄馬遺稿 鯛釣りの要領 永田一脩 【古本・古書】