明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語(感想)
高橋瑞は、唯一の私立医学校でありながら女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせました。 ”明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語”(2020年7月 中央公論新社刊 田中 ひかる著)を読みました。 荻野吟子、生沢クノに次ぐ日本で第3の公許女医、高橋瑞の生涯を紹介しています。 高橋 瑞は医師となった後に高橋瑞子と名乗りましたが、戸籍名は高橋 瑞または高橋みづで、別名、高橋ミツ、高橋みつとなっています。 1852年に三河国幡豆郡西尾、後の愛知県西尾市鶴ヶ崎町で、中級武士の西尾藩藩士の家に、9人兄弟の末子として誕生しました。 父は高名な漢学者と言われ、和漢の学に造詣が深かったことで、瑞は強い向学心を抱いて育ちました。 幕末の動乱により、父は没落士族となり、生活は楽ではなく、1862年に瑞が9歳のときに父が病死し、母も間もなく死去しました。 高橋家の家督は長兄夫妻が継ぎ、瑞子は学問を望みましたが、兄から、女に学問は不要と言われ希望を絶たれました。 裁縫の教えを兄嫁に乞いましたが、兄嫁に無視されたため、瑞子は既成の着物を解いて構造を研究し、自力で裁縫を身につけました。 この頃より、他人に頼らず自力で道を突き進んでゆく性格は顕れていたといいます。 田中ひかるさんは1970年東京都生まれ、都立青山高等学校、学習院大学法学部を卒業しました。 予備校・高校非常勤講師などを経て、1999年に専修大学大学院文学研究科修士課程にて歴史学を、2001年に横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程にて社会学を専攻しました。 学術博士で、女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行っています。 瑞子は1877年に東京の伯母から養女に迎えたいと乞われて上京しましたが、伯母の家ではすでに養子が迎えられていて、結婚を前提とした話ということでした。 伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出ました。 そして生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の者の弟への嫁入りを勧められたといいます。 相手は小学校の教員で生活の上でも不安がないと思われましたが、これも失敗して離婚しました。 この他に、車屋と同棲して飢えを凌いだ話なども伝えられているようです。 当時の東京で、女性が1人で自活していくことは並大抵のことではありませんでした。 瑞子は手に職を付けることを考え、産婆への道を志しました。 当時、産婆は例外的に女性のみが勤めることのできる稀有な職業であり、その上、収入も安定し、政府や地域社会に認められた職業でもありました。 産婆会の会長の津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、1879年に瑞子は前橋に移り、知人の紹介により磯の助手として住み込みで勤めました。 瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至りました。 1876年に東京府で産婆教授所が設置され、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期でした。 瑞子は産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾、後の東京産婆学校で学びましだ。 学費は磯が援助し、瑞子は磯の助手として産婆の実践を学ぶことに加え、紅杏塾でその実践を裏付ける理論を学びました。 そして1882年に紅杏塾を卒業して内務省産婆免許を取得した瑞子は、内務省の免許を持つ日本でも数少ない先駆的な産婆でした。 磯は瑞子を自分の後継者にと考えていましたが、瑞子は東京での産婆開業資格を取得後、前橋に戻らずに東京に留まり医師を志しました。 医師と産婆の違いを明確に理解し、産婆では救いきれない命があると考え、高い向学心により産婆の仕事に満足できませんでした。 磯の夫は産婦人科医で、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことも背景にあったそうです。 しかし当時、女性は医学校の入学も医師開業試験も受験資格がなかったため、瑞子は内務省衛生局長に直訴して現状を訴えました。 瑞子は勉強のために大阪の病院での実地で、内科、外科、産婦人科を学びました。 翌年に前橋に戻って、新産婆の看板を出して開業し、当時の正式な免許を得た産婆の1人であったことで名声を博し、産婆として大いに活躍しました。 1883年に内務省で女子の開業医試験の受験が許可され、1884年に荻野吟子が医術開業試験に合格しました。 瑞子はこの報せを新聞記事で読み、女子に医師への道が開かれたと知りましたが、開業試験の受験には医学校での勉強が条件に課せられていました。 女子も入学できた医学校として成医会講習所、後の東京慈恵会医科大学がありましたが、このときは学費が不足していて断念しました。 続いて前納金の不要な月謝制の医学校として、当時の唯一の私立医学校である済生学舎の門を叩きました。 済生学舎は純然たる開業試験の予備校で、月謝も月ごとの分納であったため、瑞子のように苦学する立場の者には、非常に好都合な学校でした。 済生学舎は、後年には女子の入学を許可しましたが、当時はまだ不許可であったため、瑞子は校長に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くしたそうです。 3日目に校長の長谷川泰に会うことができましたが、色よい返事はなかったため、その後も連日で嘆願し、10目にして入学を許可されました。 1884年に済生学舎で初の女生徒となりましたが、瑞子を苦しめたのは資金面で、頼れる親戚は皆無でした。 産婆で稼いだ資金に津久井磯からのある程度の援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足でした。 そこで、勉強の傍ら内職で女中、手紙の代筆、着物の仕立てなど、自力で生活費と学費を捻出しました。 1885年に医術開業前期試験に合格し、続く後期試験にあたっては臨床試験があったため、順天堂医院に実地研修の申し入れましたが女子は不許可でした。 しかし当時の自宅の隣人が順天堂医院の院長の甥であったため、甥の進言を得て受け入れが許可され、同医院で女性初の医学実地研修生となりました。 1887年に後期試験に合格し、1888年に36歳にして日本で第3の公許女医として登録され、知人たちの援助を得て、日本橋の元大工町に高橋瑞子医院を開業しました。 瑞子は男のような気性であったため、江戸っ子気質の現地の人々から支持され、開業早々から盛況でした。 困窮者からはあえて診察料を受け取らず、金持ちからも必要以上の診察料を取りたてることもなく、患者たちから慕われたといいます。 そのため、魚屋からは新鮮な魚が、八百屋からは野菜や果物が届けられ、生活にも困ることはなかったそうです。 1890年にドイツのベルリン大学で本場の医学、特に産婦人科学を学ぶことを望み、留学資金の調達は開業時の借金の貸主の援助を得、ドイツ語については津久井磯の義孫に家庭教師をお願いして勉強しました。 周囲の反対を振り切って日本を発って、下調べも紹介状もない独断でドイツに渡航しました。 ドイツでもどの大学も女子の入学を許可していませんでしたが、親日家で聡明な下宿先の女主人の尽力の末に、瑞子はベルリン大学に受け入れられました。 入学こそできませんでしたが、聴講生としての受講、臨床実験の見学も許可され、産婦人医学を修めることができました。 ベルリン大学のコッホ研究所に勤めていた北里柴三郎らは、その勇気と執念深さに驚くと共に感心したそうです。 岡見 京のようにアメリカにわたって女医となった例はありますが、医師の資格を得てからドイツへ留学した日本女性は瑞子が初でした。 しかし、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り、病気を患って吐血し、滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、1891年に重症のまま帰国しました。 一時は命すら危ぶまれましたが、帰国後は病状が奇跡的に回復し日本橋で再開業しました。 ドイツ仕込みの腕前との評判により、医院の名声も高まり、同業者の間でも羨望の的となったといいます。 瑞子は明治政府が定めた医事制度のもとに誕生した、荻野吟子、生渾久野に続く三人目の女医です。 帝国憲法発布、帝国議会開設と近代化を急ぐ日本政府は、人材確保のため欧米各国に官費留学生を送っていましたが、それは優秀な男子に限られていました。 津田梅子、山川捨松などアメリカヘの女子留学生は前例がありましたが、ドイッヘの女子留学生、それも私費で渡ろうというのは瑞が最初でした。 しかし、この留学はあまりにも無計画なものでした。 ドイツの大学は女子留学生どころか、自国の女子学生の入学さえ認めていませんでした。 もう一つ、瑞子はドイツ汽船に乗ればドイツにたどり着くと思い込んでいましたが、この船はシンガポールまでしか行かないものでした。 ようやく洋食や洋式便座に慣れた頃、船はシンガポールに到着し、なんとかドイツ行きの船に乗り換えを果たしました。 その頃、在ドイツ公使館の職員たちは、本国から初の女子留学生かやってくるという報に想像をたくましくし、沸き立っていたそうです。 この中には、のちの首相の西園寺公望もいましたが、期待は呆気なく裏切られました。 日本から女医が来たというので、公使館員達が大騒ぎして迎えに出てみると、妙齢の貴婦人と思いきや、板額の生れ更りのような中婆さんなので二度吃驚した、という記録が残されています。 同じく1890年に、瑞子より1つ年上で、公許女医第一号として名を馳せていた荻野吟子は、突如13歳年下のキリスト教伝道師と結婚して世間を驚かせました。 吟子は女医第一号としての名声や、婦人団体幹部の肩書きを惜しげもなく捨て、クリスチャンによる理想郷を作るという夫の夢を叶えるため、北海道へ渡ることを決意しました。 最初期の公許女医二人は、偶然にも同時期に自らの医院を閉め、片や夫とともに新天地へ、片やドイツ留学へと新たな道を歩み出したのでした。 本書には、高橋瑞のほか、公許女医第一号の荻野吟子、第二号の生渾久野、第四号の本多鐙子、東京女子医大創設者の吉岡蒲生など、複数の女医を登場させています。 史料に見られる言動から浮かび上かってくるそれぞれのキャラクターが、個性的です。 今日、女医という言葉は差別用語と見なされますが、初期の公許女医たちは女医として差別され女医として生きました。 女医が登場してから135年経ち、医療現場で活躍している女性医師は7万人を超えています。第1章 父の遺言を胸に/第2章 女医誕生までの道/第3章 済生学舎での日々/第4章 新天地へ/第5章 お産で失われる命を救う/主要参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語 /田中ひかる(著者) 【中古】afb【中古】女医さんが教える元気でキレイなからだのつくり方—つらい肩コリ、肌のトラブルからしつこい便秘までスッキリ解消! (PHP文庫) 玲子, 橋口