遊王 徳川家斉(感想)
徳川家斉は1773年生まれ、親藩御三卿の一橋治斉の長男で、母は岩本正利の娘。幼名は豊千代、院号は文恭院と言いました。 ”遊王 徳川家斉”(2020年5月 文藝春秋社刊 岡崎 守恭著)を読みました。 在位50年で子どもは50人以上あり、泰平の世のはまり役で、賄賂と庶民文化花盛りの文化文政の世を築いた11代将軍徳川家斉の生涯を紹介しています。 1779年に第10代将軍・徳川家治の世嗣である家基が急死し、父と田沼意次の後継を工作しました。 また家治に他に男子がなく、家治の弟の清水重好も病弱で子供がいなかったことから、1781年に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称しました。 1786年に家治が50歳で病死したため、1787年に15歳で第11代将軍に就任し、1837年までの50年間在職しました。 将軍になってからは、前代からの権臣田沼意次を排して、白河城主松平定信を老中首座、将軍補佐に抜擢し、寛政の改革を行ないました。 しかし定信退陣後は親政し、いわゆる文化文政時代を現出しました。 将軍の生活が豪奢になり、側室通算40人、子女55人をもうけ、政治の綱紀もゆるみ、放漫政治が展開されました。 賄賂が横行し、幕政は腐敗し、財政は窮乏化しました。 1827年に在職40年に及んだ機会に、太政大臣に昇進しました。 奢侈な風潮は一向にやまず、幕府の財政はますます窮乏化しました。 そして、隠居後もその死まで大御所として実権をふるい、いわゆる大御所時代を現出しました。 天保年間に諸国に大飢饉が起りましたが、幕府は有効な救済策を講じず、1837年には大塩平八郎の乱が起るにいたりました。 家慶に将軍職を譲りましたが、大御所として政治の実権を握っていました。 この間外国船の来航がしきりで、1825年には異国船打払令が出されました。 岡崎守恭さんは1951年東京都板橋区生まれ、1973年に早稲田大学人文学科し卒業し、日本経済新聞社に入社しました。 北京支局長、政治部長、大阪本社編集局長、常務執行役員名古屋代表、テレビ東京メディアネット社長などを歴任しました。 歴史エッセイストとして、国内政治、日本歴史、現代中国をテーマに執筆、講演を行っています。 家斉は将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免しました。 代わって、徳川御三家から推挙された、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命しました。 これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしました。 寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られましたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こりました。 さらに、尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになりました。 1793年に家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりました。 ただし、家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を、老中首座に任命しました。 これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で、定信の政策を継続していきました。 1817年に松平信明は病死し、他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきました。 このため1818年から、家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけました。 忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して、収賄を奨励しました。 さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったため、奢侈な生活を送るようになりました。 さらに、異国船打払令を発するなど、たび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行しました。 忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて、8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行ないましたが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになりました。 1834年に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となりました。 しかし、実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治は続きました。 この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、1837年に大坂で大塩平八郎の乱が起こりました。 さらにそれに呼応するように、生田万の乱をはじめ反乱が相次ぎ、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになりました。 また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まりました。 1837年に次男・家慶に将軍職を譲っても、大御所として幕政の実権は握り続けました。 最晩年は、老中の間部詮勝や堀田正睦、意次の四男の田沼意正を重用しました。 栄華を極めた家斉でしたが、最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられています。 家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷されました。 そして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となりました。 260年に及ぶ徳川幕府で、15人の将軍が出ました。 当然のことながらまず思い浮かぶのは最初の家康、そして最後の慶喜でしょうか。 次はと言われると、参勤交代などのいろいろな制度を確立した三代の家光、中興の祖と言われた八代の吉宗でしょうか。 もう一人となると、犬将軍で知られる五代の綱吉あたりの名前が挙がりそうです。 十一代の家斉は、多くの方の記憶の中ではその次くらいに出てくるかどうかでしょう。 側室を山のように抱え、子供が50人以上もいて、オットセイ将軍とか、種馬公方と鄭楡されていたと聞いて、何となく思い出すといった程度の存在かも知れません。 ですが家斉は50年というとんでもない長い期間、将軍の座にありました。 これは第2位で29年の吉宗をはるかにしのいでいるばかりか、室町時代や鎌倉時代の将軍を含めても圧倒的な第一位です。 征夷大将軍を辞めてから最高位の官職である太政大臣の栄誉を得た人物はいますか、現職の征夷大将軍のまま太政大臣にまで昇りつめて二つの職を兼任したのも歴史上、家斉だけです。 江戸時代は長く続いていた戦乱の世に終止符を打ち、平和を維持したことが評価され、世界史上でもパックストクガワーナとして特筆されています。 家斉の時代はその中でも、とりわけ泰平の世として知られています。 家斉がつくった多すぎる子女の扱いに困り、徳川幕府が養子や嫁入りの形で各地の大名家に押し付けました。 大名家もこれを受け入れることで、自らの家格の引き上げや借金の棒引きというメリットを享受しました。 その結果、家斉の名前の一宇をもらった「斉」のつく藩主や、将軍家の姫君の奥方が全国に蔓延し、将軍家を中心とする壮大な親戚ネットワークができ上がりました。 それは緩やかな統治の強化にも役立ち、幕藩体制のほころびも隠し泰平の世を支えました。 家斉は権威と安定の象徴であり、ある意味で最強の将軍でした。 家斉の死去と同時に徳川幕府は威権を失って傾き始め、次の将軍の家慶の晩年にはペリーが来航し、これを機に一気に坂を転がり落ち瓦解しました。 徳川幕府が最後の光芒を放ったのは家斉の時代だったのです。 抜本的な改革をなしたわけではなく、対症療法の政治に終始したとも言えますが、強引に無理なことをしないのが逆に泰平の世には向いていました。 江戸時代は享保、寛政、天保の三大改革が有名ですが、庶民の生活という視点で見ると、実際にはその時代は何かと締め付けが厳しくて暮らしにくかったでしょう。 これに対して、家斉の時代は武家も町人もいわぱ羽を伸ぱせたのではないでしょうか。 長期政権ならではの忖度や情実が広がり、側近を重用するお身内政権でもあり、迫りくる危機に正対せず、生ぬるく生きているゆでがえる状態だったのかもしれません。 ですが、豪奢な政治が醸し出したそれなりに自由な気風の中で、歌舞伎や浮世絵などの文化も花開き、娯楽は庶民にまで浸透しました。 明治時代になって古きよき時代と懐かしがられたのも、家斉の文化文政の世です。 徳川実紀、正確には続徳川実紀の家斉の巻で、家斉は「遊王」と総括されています。 「遊」は外遊とか遊学という言葉があるように、本来の遊ぶという意味だけでなく、自由に動くとかゆとりがあるという意味でも使われます。 将軍を退任した後の大御所として、家斉は華やかでのびやかな権力者生活を謳歌してきたと思われます。 著者は、家斉を名君だったとか、卓抜した指導者だったなどとは言っていませんし、そう思ってもいないといいます。 ただ50年も将軍だったことを知ると、多くの人は驚き、その時代が明治の頃には大いに懐かしがられたことを考えると、ちょっと評価が過小かも知れません。 その後、病弱で若死した将軍が続き、これも幕府の衰亡につながったことから、家斉の身体が頑健であったことも評価できなくはありません。 家斉は泰平の世のはまり役だったのではないかといいます。はじめに 家斉のススメ/第1章 「斉」の全国制覇/第2章 十一代将軍への道/第3章 「生」への執念/第4章 「政」はお任せ/第5章 あれもこれも/第6章 赤門の溶姫様/第7章 江戸の弔鐘/エピローグ 浜御殿[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】新書 ≪歴史・地理≫ 遊王 徳川家斉 【中古】afb【中古】 上様出陣!(一) 徳川家斉挽回伝 徳間文庫/牧秀彦【著】 【中古】afb