小池一子 はじまりの種をみつける(感想)
クリエイティブ・ディレクターは、企業や団体が広告宣伝を行う際に、そのビジュアル制作や広告戦略を指揮する仕事です。 依頼主からPRしたい商品やサービスの概要、あるいは広告戦略の方針を聞いた上で、どのような手法を使って宣伝すればより効果的なのか検討し、企画や戦略を練っていきます。 ”小池一子 はじまりの種をみつける”(2021年5月 平凡社刊 小池 一子著)を読みました。 日本のファッションやアート、デザインの世界で先駆的な仕事を成し遂げてきた、クリエイティブ・ディレクターの小池一子が来し方と人となりを語っています。 広告宣伝の方法には、テレビCMや新聞広告、雑誌広告、ポスターや車内広告、店頭キャンペーン、インターネット広告など、いろいろな種類があります。 これらを組み合わせながら、より広く周知できる方法を考案していきます。 広告の手法が決定すると、コピーライターやCMプランナー、アートディレクターらを集め、ポスターやCMなどの広告物の制作を行っていきます。 このときクリエイティブ・ディレクターは、依頼主に提案した通りの広告物が完成するようにスケジュールや品質の管理を担当します。 似たような職種として、アートディレクターが挙げられ、企業によっては同じ職業として扱われることもあります。 しかし、制作物のビジュアルの監修が業務の中心であるアートディレクターに対して、クリエイティブ・ディレクターはビジュアル監修に加え、広告戦略の立案にも大きく関与します。 そのため、美的センスやスタッフをまとめるリーダーシップだけではなく、広告手法に関する幅広い知識や経験が必要とされます。 小池一子さんは1936年2月6日に、教育学者の父・矢川徳光と母・民子の間に、5人姉妹の4番目として東京に生まれました。 作家で翻訳家の矢川澄子さんは、次女であり姉です。 1943年に、政治家で出版社を営む小池四郎伯父と、洋裁研究所を主宰する元子伯母の養子となりました。 1944年の小学3、4年の時に、静岡県田方郡函南村へ疎開し、父・四郎が創設した青年訓練所のコロニアル様式の住宅で暮らしました。 終戦後、父・四郎が死去しましたが、しばらく伊豆伊東に居を構え、のち東京へ戻りました。 1948年に、クリスチャン・スクールの恵泉女学園中等部に入学し、高等学校まで同学園で学びました。 1954年に、早稲田大学文学部演劇科に入学し、2年時に、英文科へ転科しましたが、在学の5年間は、学生劇団「自由舞台」にほとんどの時間を費やし、演劇に没頭しました。 1959年に大学を卒業後、姉・澄子の紹介で堀内誠一さんの監修するアドーセンターに入社しました。 同年創刊の『週刊平凡』(平凡出版、現・マガジンハウス)の連載ページ「ウィークリー・ファッション」にて、はじめて編集、執筆を担当しました。 以後、ファッション、デザインを中心に、執筆や編集の仕事が本格化しました。 久保田宣伝研究所(現・宣伝会議)でコピーライター養成講座に通いました。 1961年にアド・センターを退職し、フリーランスになり、高野勇さん、江島任さんと「コマート・ハウス」を設立しました。 1962年に編集を担当した広報誌『プワンティングインク』の創刊にアートディレクターとして田中一光さんを迎え、以後、多くの重要な仕事をともに行いました。 三宅一生さんとの出会いもこの年のことでした。 1965年にアメリカのサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ヨーロッパのロンドン、パリ、ミラノへ初めて外遊しました。 1966年に森英恵さんの顧客向け冊子、タブロイド判『森英恵流行通信』創刊号より、編集と執筆を担当しました。 ヨーガン・レールさんを取材し、生涯の交友が始まりました。 1969年に企画、コピーライティングで「池袋パルコ」立ち上げに参加し、西武グループの広告活動に様々な提案を行いました。 訳詞を手がけたミュージカルの「ファンタスティックス」の公演が行われました。 1970年に旭化成の研究室に参画し、テレビコマーシャルの仕事にも携わりました。 1973年の冬休みに、三宅一生さん、皆川魔鬼子さんとロサンゼルスヘいき、ニューヨーク、メトロポリタン美術館で開催されていた「Inventive clothes 1909-1939」展に出合いました。 1975年にこの展示会を京都で開催すべく、「現代衣服の源流」展と題し、企画、実施に奮闘しました。 主催は京都国立近代美術館と京都商工会議所、会場は京都国立近代美術館で、アートディレクターは田中一光さん、空間は杉本貴志さん、マネキン製作は向井良吉さんでした。 同年にコマート・ハウスを退職し、米国・ハワイ大学所属機関「東西文化研究所」へ美術館学の研修のため半年間留学しました。 1976年の在米中に、「世界クラフト会議」参加のためメキシコヘ行きました。 田中一光さんからのハワイヘの電話で、東京デザイナーズ・スペースに発起人として参加しました。 ハワイから帰国後、有限会社オフィス小池を設立し、後に株式会社キチンに改称しました。 西武美術館のアソシェイトキュレーターとなり、1977年開催の「見えることの構造」、1979年開催の「マッキントッシュのデザイン展一現代に問う先駆者の造形 家具・建築・装飾」以降、数多の展覧会に参画しました。 1977年にファッションデザインを最初に美術館で取り上げた「三宅一生。一枚の布」展が西部美術館で開催されました。 1978年に三宅一生の本『三宅一生の発想と展開』の編集を担当し、青山に構えられた編集室に龍る日々であす、実施に奮闘した。 主催は京都国立近代美術館と京都商工会議所、会場は京都国立近代美術館で、アートディレクター・構成は田中一光さん、写真は横須賀功光さん、操上和美さんほかでした。 1979年に「無印良品」の企画・監修に参画し、1980年から販売が開始されました。 同年に「浪漫衣裳」展の図録を編集し、京都国立近代美術館で開催されました。 翻訳を手がけたジュディ・シカゴ著『花もつ女-ウエストコーストに花開いたフェミニズム・アートの旗手、ジュディ・シカゴ自伝』がパルコ出版から出版されまし。 1981年に、アムステルダムのアート・ディレクターズ・クラブ主催の「ジャパンデイ」でパネル・トークを行いました。 同催事のため、田中一光さんと『日本の色彩』を出版し、翌年リブロポートからも刊行されました。 ダイアナ・ヴリーランド著『アルール美しく生きて』の監修、翻訳を行いました。 1980年度ファッション・エディターズ・クラブFECを受賞しました。 1982年に演出家の渡辺浩子訳・演出のミュージカル「キャバレー」の訳詞を担当し、博品館劇場で公演が行われました。 1983年に佐賀町エキジビット・スペースを設立し、主宰となりました。 佐賀町エキジビット・スペースは、1927年竣工の「食糧ビル」の空間を1983年に再生し、2000年までの17年間、小池一子が設立・主宰した日本初のオルタナティブ・スペースです。 現在進行形のアートを発信し、森村泰昌さん、内藤礼さん、大竹伸朗さん、杉本博司さんら多数のアーティストを輩出しました。 2011年に「佐賀町アーカイブ」が3331 Arts Chiyodaに開設され、現在に至っています。 1927年竣工のかつては廻米問屋市場として栄えた「食糧ビル」の空間を再生し、1983年から2000年までの17年間、現在進行形のアートを発信した日本初のオルタナティブ・スペース「佐賀町エキジビット・スペース」です。 森村泰昌さん、内藤礼さん、大竹伸朗さん、杉本博司さん、立花文穂さんなど多数のアーティストを輩出しました。 2011年より「佐賀町アーカイブ」として、佐賀町エキジビット・スペースの活動と資料、作品コレクションを検証し、展示し、語り、学ぶ、アーカイブをショーケース化するという新しい試みをスタートしました。 1995年に、「日本文化デザイン会議95群馬」による日本文化デザイン賞授賞委員長に就任しました。 1996年に佐賀町エキジビットースペースの活動が賞され、財団法人日本文化藝術財団(京都)から第三回日本現代藝術振興賞を受賞しました。 1997年に、DNP文化振興財団主催で現代グラフィックアートセンターで開催されました、 大竹プリンティング/ペインティング」展のキュレーションを行いました。 2000年に国際交流基金主催で佐賀町エキジビット・スペース閉廊で開催された、ヴェネチア・ビエンナーレ第7回国際建築展日本館「少女都市」のキュレーションを行いました。 同年に、特定非営利活動法人AMP(Art Meeting Point)を設立しました。 2002年に食糧ビルディング解体にともない開催された、「エモーショナル・サイト展」の実行委員となりました。 2006年に70歳で武蔵野美術大学を退任し、名誉教授となりました。 鹿児島県霧島彫刻ふれあいの森の、作品・作家選定委員となりました。 2008~2009年は、ロンドンでの研修で日英を行き来する日々となりました。 2011年に、アーツ千代田3331内に「佐賀町アーカイブ」を設立し、「佐賀町アーカイブ」と題し、大竹伸朗さん、内藤礼さん、野又穫さん、森村泰昌さんの展覧会を開催しました。 2012年に三宅一生デザイン文化財団主催で21_21DESIGN SIGHTで開催された「田中一光とデザインの前後左右」展のキュレーションを行い、同時刊行の同名書籍の企画・編集を行いました。 2014年に、総合ディレクター清水敏男さんの企画で銀座四丁目名古屋商工会館で開催されました、 「いまアートの鏡が真実を映す」展の実行委員となりました。 2015年に良品計画発行の書籍『素手時然』の編集と執筆を行いました。 2016から2020年まで十和田市現代美術館館長に就任し、第68回全国美術館会議にて理事に就任しました。 2018年に、エイボン女性年度賞2017大賞を受賞し、2019年に第22回文化庁メディア芸術祭功労賞を受賞しました。 2020年に群馬県立近代美術館で開催された、展覧会「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000 現代美術の定点観測」の企画、キュレーションを行い、同カタログの編集、執筆を行いました。 同年に平凡社から著書『美術/中間子小池一子の現場』を出版し、良品計画から『MUJI IS』を編集、執筆し、刊行されました。 2021年に「東京ビエンナーレ2020/2021」の総合ディレクターとなり、企画展「東京に祈る」のキュレーションを行いました。 「東京ビエンナーレ」は、戦後の復興期に上野の東京都美術館で行われていた国際展で、中でも1970年、「人間と物質」をテーマにした第10回は日本の美術史に大きな足跡を残すものでした。 そこから半世紀が経ち、アートや芸術のあり方も大きく変化した今の東京で、新しいフレームや仕組みを実験する場として「東京ビエンナーレ」を2020年に始めることにしました。 著者は、素晴らしいクリェイターたちと人生で出会えたことは、もう感謝としか言いようがないといいます。 お互いに心からわかりあって、一緒にものをつくることができる関係というのは何にも代えがたいことです。 価値観が共有できる人と何かを生み出すということ、それが自分にとっていちばん楽しいことで生活の基本であるといいます。鍬と聖書が育んだ情緒/才気あふれるクリエイターたちと/衣服と美術、ものづくりの現場で/日本の社会で女性として生きるということ/はじまりの種をみつける/のこす言葉/略歴[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]小池一子 はじまりの種をみつける【中古】 歴史をつくる女たち 8 / 小池 一子, 木村 尚三郎 / 集英社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】