家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる(感想)
築山殿=つきやまどのは徳川家康の正室だが、生年は不詳で実名は不明です。 1579年9月19日に亡くなった、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。 ”家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる”(2022年10月 平凡社刊 黒田 基樹著)を読みました。 築山殿は今川家の血脈を受け継ぎ、徳川家康の人質時代にその正室となりましたが、のちに武田家との内通疑惑があがり織田信長から死罪を命じられました。 そして、嫡男の信康とともに生涯の幕を閉じたその生涯を、本書が紹介しています。 瀬名の名があてられことがありますが、当時の史料にも江戸時代前期の史料にも瀬名の名はみられません。 築山の由来は岡崎市の地名で、具体的な場所は”岡崎東泉記”によると、岡崎城の北東約1キロほどに位置する、岡崎市久右衛門町であったとされます。 父親は関口親永(氏純とも言われる)、母親は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たります。 夫の徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいと推測されています。 母親は井伊直平の娘で先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したといいます。 その場合、井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たります。 関口氏自体は、御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄でした。 家康(当時は松平元信、その後松平元康)が今川氏一門である関口氏の娘婿になったのは、今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していました。 築山殿に関する当時の史料はわずか一つだけで、その動向を伝えるものは江戸時代に成立した史料かほとんどです。 江戸時代がすすむにつれて、その動向は様々に伝えられるようになり、また解釈されていくようになったようです。 本書では、江戸時代の成立ではあるものの、できるだけ内容の信頼性が高い史料をもとに、その実像を明らかにしていきます。 黒田基樹さんは1965年生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)を単位取得満期退学しました。 1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授となり、2012年に教授となって、今日に至っています。 築山殿の生涯における最大の謎は、築山殿が家康に殺害された、とされていることでしょう。 嫡男松平信康もまた同時に家康に殺害されたものでした。 そのため、それは「築山殿事件」「築山殿・信康事件」あるいは「信康事件」などとも呼ばれています。 1579年7月16日に信長から家康に、築山殿と信康に謀反の疑いがあると通告があり死罪を命じられました。 それを訴え出たのは、信長の娘で信康の正室となっていた徳姫でした。 信康は家康の独立時には駿府にいて母の築山殿と取り残されましたが、まもなく救出されて岡崎城に入りました。 1563年に5歳で信長の娘・徳姫と婚約し、やがて元服して岡崎城を任ぜられました。 徳姫との間には2女を儲け、夫婦仲はよかったといいますが、やがて築山殿と徳姫が不和となると、最期は築山殿とともに謀反の嫌疑をかけられ、信長から死罪を命じられて自害しました。 徳姫がいつまでたっても息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家家臣で後に徳川家家臣となった浅原昌時の娘など、部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。 1579年に徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にした、築山殿と唐人医師・減敬との密通があった、武田家との内通があったなど、12か条からなる訴状を信長に送ったといいます。 築山殿は8月29日に自害を拒んだことから首をはねられ、信康は9月15日に二俣城で自害しました。 もう一人の子の亀姫は、1576年に家康が長篠の戦いで功をあげた旧武田家臣の奥平信昌に娶らせました。 亀姫は信昌との間に4人の男児と1女を設け、信昌の死後は剃髪して盛徳院と号しました。 おそらく、築山殿事件は家康にとっては寝耳に水の事態だったと思われます。 経緯についてはある程度は把握することかできていますが、真相を伝える史料は存在していません。 そのため事件の真相をめぐって、先行研究において様々な解釈か出されています。 その解釈は、詰まるところ、家康と築山殿・信康をめぐる政治環境をどのように理解するかによっています。 本書でも事件の真相に迫りますが、信頼性の高い史料にもとづいて事件の輪郭を描き出し、築山殿の立場を、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点からしっかりと評価したい、といいます。 戦国大名家は、当主たる家長と、正妻たる「家」妻との共同運営体とみなされます。 そこでは正妻あるいは「家」妻が管轄する領域があり、その部分に関しては、当主あるいは家長であっても独断で処理できず、正妻あるいは「家」妻の了解のもとにすすめられたと考えられます。 戦国大名家の妻妾については、「正室」「側室」の用語か使用されることか多いですが、「側室」は江戸時代に展開された一夫一妻制のもと、妾のうち事実妻にあたるものについての呼称です。 しかし、戦国時代はまだそのような状況にはなく、当時は一夫多妻多妾制でした。 家康には正室・継室のほかに、16~20人を超える側室をかかえたとされています。 側室の多くは実は身分の低い者たちで、特に寵愛したのは名もない家柄の娘たちでした。 名家の出身者ばかりを側室にしていた豊臣秀吉とは対照的で、家康は出自には全くこだわらなかったようです。 たとえば、小督局=こごうのつぼねは家康の最初の側室とされ、家康二男・結城秀康の生母として知られます。 はじめは築山殿の侍女でしたが、風呂場で家康の手付となって秀康が産まれたといいます。 築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられ、これをたまたま見つけた家康の家臣の本多重次に保護され秀康を出産した、といいます。 また、秀康双子説もあり、当時双子は忌み嫌われていたことから母子ともに家康に疎まれたといいます。 西郷局=さいごうのつぼねは遠州の名もない家柄の娘で、通称はお愛の方といいます。 はじめは下級武士に嫁いで一男一女を設けましたが、夫が戦死し、のちに家康に見初められて側室となりました。 家康最愛の側室といわれ、江戸幕府2代将軍・秀忠と松平忠吉の母でもあります。 美人で温和な人柄といい、家康のほか、周囲の家臣や侍女らにも信頼されて好かれていたといいます。 築山殿の動向、そして殺害事件は、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点からみていくと、どのように理解することかできるかが、本書の眼目になります。 何事も、視点か転換すると違う様相がみえてきます。 これから、新たな視点をもとに、築山殿の生涯をたどっていくことにしたい、といいます。 これまでに築山殿の生涯をまとめた書籍かなかったわけではありません。 しかしそれらは、正妻や「家」妻についての研究が進捗していない段階のもので、依拠する史料も、江戸時代成立のものについて、内容の信頼性の高さ低さを区別なく用いられていました。 本書では、現在の研究水準をもとに、信頼性の高い史料によりながら、築山殿の生涯を描き出すことをこころがけた、といいます。第1章 築山殿の系譜と結婚(「築山殿」の呼び名/築山殿の父は誰か ほか)/第2章 駿府から岡崎へ(松平竹千代(徳川家康)の登場/竹千代「人質」説の疑問 ほか)/第3章 家康との別居(嫡男竹千代の岡崎帰還/諸史料が伝える人質交換 ほか)/第4章 岡崎城主・信康(岡崎城主としての信康の立場/信康の初陣はいつか ほか)/第5章 信康事件と築山殿の死去(家康による武田家への反撃/信康の悪行のはじまり ほか) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]家康の正妻 築山殿(1014;1014) 悲劇の生涯をたどる (平凡社新書) [ 黒田 基樹 ]【中古】 築山殿無残/講談社/阿井景子 / 阿井 景子 / 講談社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】