日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事(感想)
日野富子は1440年に室町幕府に将軍家と縁戚関係だった名門・日野家に、日野政光(重政)の娘として生まれました。 ”日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事”(2021年7月 ミネルヴァ書房刊 田端 泰子著)を読みました。 北条政子・淀殿とともに三大悪女と呼ばれる日野富子は、激動の時代にあって夫の政治を支え後継者を育てようとして御台所として精一杯役割を果たそうとしたのだといいます。 16歳で室町幕府第8代将軍・足利義政の正室となり、子の足利義尚を将軍の跡継ぎにしようとしました。 山名持豊(宗全)と結び、義政の弟義視をおす細川勝元と争い、応仁の乱を引き起こしました。 義尚が9代将軍となると幕政に関与して、高利貸し、関所新設による関銭の徴収などで蓄財をはかりました。 田端泰子さんは1941年神戸市生まれ、1964年京都大学文学部を卒業し、同大学院博士課程を中退しました。 その後、橘女子大学助教授、1980年教授となり、校名変更で1988年京都橘女子大学教授となりました。 専門は日本中世史(中世後期の村落構造)・女性史です。 1989年の文学博士(京都大学)の学位を取得し、2004年より学長となり、2005年校名変更で京都橘大学学長となりました。 2010年に退任し、現在は名誉教授です。 日野富子は室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたります。 正式名は氏姓+諱の藤原朝臣冨子で、従一位冨子の本人署名が後世に伝わりました。 当時の呼称は主に将軍正室の意味の「御台」、夫の死後もしばしばそのように呼ばれていました。 実際に本人が「日野富子」を名乗った事実は確認されていません。 父親は蔵人右少弁・日野重政、母親は従三位・北小路苗子です。 兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)がいます。 16歳で義政の正室となり、1459年に第1子が生まれましたが、その日のうちに夭折しました。 それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし、義政の側室4人も追放しました。 富子は1462年と1463年に相次いで女子を産みましたが、男子を産むことはできませんでした。 1464年に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ、細川勝元を後見に将軍後継者としました。 しかし1465年に富子は義尚を出産し、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立しました。 これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発しました。 富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいました。 東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして、一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれます。 1471年頃には室町亭に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まりました。 当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものでしたが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していました。 1473年に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となりました。 義政は政治への興味を失い、1475年には小河御所を建設して1人で移りました。 1476年に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となりました。 「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は、1、2町にも達したといいます。 11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移りました。 しかし、1481年になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまいました。 その後は長らく義政とは別居したといいます。 1477年にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ちました。 義勝の早世により第8代将軍となった義政は、正室富子から男子が生まれるのを待たず、弟義視を自身の後継者に決めました。 この決定は義尚の死後、政治的混乱を引き起こす遠因となりました。 義政青年期の政治は後継者問題にも表れているように、優柔不断であり、両畠山氏の争いを止めさせることができず、応仁・文明の大乱を引き起こす原因をつくってしまいました。 大乱中に富子は出産を抱えていたにもかかわらず、天皇家が室町第に避難してきて以来、その居所を提供する仕事に謀殺されました。 それとともに義尚が1473年に第9代将軍を拝命しましたので、その後見役を、日野勝光の死後は特に、務めねぱならなくなりました。 1474年5月に尋尊が「公方ハ御大酒、諸大名ハ犬笠懸」「天下公事修ハ女中御計」と記しました。 政治に関心をなくした義政と、逆に義尚の後見のためにも政治に参画せざるをえなかった富子の状況を如実に表しています。 富子の執政が最も実を上げるのは、1477年7月から9月でした。 富子は御台所として、夫生存中も時には執政し、嫡子で次期将軍となった義尚の後見役を務め、義尚と義政が相次いで死去した後も次期将軍家の選定に努力しました。 御台所として、十分にその役割を果たした人であったと言えます。 しかし室町戦国期の社会通念は儒教思想そのものであり、「腹は借り物」という男性優位、女性蔑視の考えが一般的であったことも分かりました。 そうした社会通念の世にありながら、鎌倉時代句御台所北条政子と同じく、将軍家の中の一つの家として、政治上の欠け落ちた点を補い、側面から将軍家を支える役割を果たしました。 日野富子に対する研究が異なった様相を見せ始めるのは1980年代後半に入ってからです。 本書では、その後の室町・戦国期の権力構造や経済圏、文化の特質などに関する研究を参照しました。 室町期の衣服や「坐態」に関する論稿なども加えて、日野富子という将軍家正室が、大乱の時代をどのように生きようとしたのかについて、明らかにしたいといいます。第1章 公家日野家の歴史/第2章 富子、義政に嫁ぐ/第3章 義尚を後見する富子/第4章 義尚の自立/第5章 後継将軍を選ぶ/終章 晩年の富子とその死 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 田端 泰子 ]秘恋 日野富子異聞【電子書籍】[ 鳥越碧 ]