竹林の七賢(感想)
竹林の七賢とは、3世紀の中国三国時代末期から晋代初期にかけて老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家です。 ”竹林の七賢”(2024年6月 講談社刊 吉川 忠夫著)を読みました。 中国三国時代末期から晋代初期にかけて、老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家について簡明に紹介しています。 七賢は、俗世間を避け竹林に集まって酒を酌み交わし琴をひき清談をしたといわれています。 阮籍(げんせき)、 康嵆(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)の7人です。 時に漢王朝が滅亡し、儒教の権威が失墜し、政治社会が揺れ動いた魏晋の時代でした。 7人は、葛藤を抱えながら己の思想を貫こうとする者たちでした。 そのなかにはさまざまのタイプの人間が含まれていて、実に個性豊かです。 中には、権力に睨まれ刑死した者もあり、敢えて世俗にまみれた者もありました。 儒教が唯一絶対の価値の源泉であった漢代と異なり、価値が多様化した時代の指標をみとめることができます。 七賢の面々は、ある場合は文学作品や哲学論文によって、ある場合はそれぞれ生き方によって、強烈でしたたかな自己主張を行ないました。 吉川忠夫さんは1937年京都府生まれ、1959年に京都大学文学部史学科を卒業し、1964年に同大学院文学研究科を単位取得退学しました。 専門は中国中世思想史で、東海大学文学部講師、京都大学教養部助教授となりました。 1974年に京都大学人文科学研究所助教授、1984年から教授を務めました。 1991年から1993年まで人文科学研究所長を務め、2000年に京都大学を定年退官し、名誉教授の称号を受けました。 2000年に花園大学客員教授、国際禅学研究所所長、2002年に龍谷大学文学部教授を経て、客員教授となりました。 2006年より日本学士院会員となり、2009年に東方学会会長に就任し、2011年秋まで勤め、現在は顧問となっています。 2013年に文化功労者となり、2022年に文化勲章を受章しました。 3世紀の魏晋の時代には、敬愛すべき人物が少なからず輩出されました。 それらのなかで、竹林の七賢は際立った存在です。 これらの7人が竹林の七賢と呼ばれるようになったのは、4世紀の東晋時代のことでした。 東晋時代の人たちは、七賢に人間の典型を見いだし、自分たちの理想を託しました。 七賢が生きた魏晋の時代に、前漢と後漢あわせて400年の長きに存在した漢王朝が崩壊しました。 このときは、政治的にも思想的にも無政府状態となった中から立ち現れた時代でした。 魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判しました。 偽善的な世間のきまりの外に身を置いて、老荘の思想を好みました。 前漢の武帝は儒教を王朝の正統教学として採用し、それ以後、儒教は王朝に政治理論を提供しました。 儒教に根拠を置く礼教主義は、漢代の人びとの日常生活にも浸透しました。 漢代は儒教があらゆる価値の源泉で、人びとは自由に精神を飛翔できませんでした。 儒教がすべてを基礎づけていた漢王朝が崩壊すると、儒教の権威は失墜しました。 魏晋の人びとは、もはや儒教にのみに人生の指針を見だすことができなくなりました。 そこで、みずからの信ずるところにしたがって、人それぞれに生きる道を模索しはじめました。 このような時代を生きた七賢は、それぞれに自己を際立たせました。 竹林の七賢というものの、中にはさまざまのタイプの人間が含まれていて個性豊かです。 一人の人間についても、性向と行動とは一見すると矛盾するかのように思われる場合すらあるといいます。 山濤は、205年生まれの後漢末年の三国時代の魏および西晋の文人です。 幼少時に父を亡くし、貧窮した生活を送りました。 40歳を過ぎて魏の官途について司馬氏に属しました。 曹爽の台頭により隠棲しましたが、曹爽が司馬懿のクーデターで粛清されると再び出仕しました。 西晋代になって、吏部尚書・太子少傅を歴任するなど栄達しました。 老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人と後世に称されました。 嵆康は、223年生まれの中国三国時代の魏の文人で、七賢の主導的な人物の一人です。 幼少の頃孤児となり、魏の末期の政治的に不安な時代を生きました。 自由奔放な性格と魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦めました。 琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたといいます。 老荘を好み官は中散大夫に至りましたが、山濤から役を譲られようとした時、絶交を申し渡しそれまで通りの生活を送りました。 「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していました。 著作は他に「養生論」「釈私論」があり、詩は四言詩に優れていました。 阮籍は、210年生まれの中国三国時代の思想家で、七賢の指導者的人物です。 魏の末期に偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置きました。 蔣済が召し出そうとするも応じず、怒りを買いました。 親類に説得されたためやむなく仕官しましたが、病気のため辞職しました。 司馬懿がクーデターを起こして実権を握ると、従事中郎に任じられました。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になりました。 大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたといわれます。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対しました。 老荘思想を理想とし、「大人先生伝」「達荘論」などの著作があります。 劉伶は、221年生まれの三国時代の魏から西晋にかけての文人で、竹林の七賢の一人です。 酒を好み礼法を蔑視する生活を送り、世を避けて清談に明け暮れました。 「酒徳頌」などの著作があります。 王戎は、234年生まれの三国時代から西晋にかけての政治家・軍人で、竹林の七賢の一人です。 幼少時から、大人顔負けの聡明さを発揮しました。 鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられ、河東太守、荊州刺史などを歴任しました。 晋の恵帝の時に、三公である司徒となりました。 廉潔な一面をもちますが、利殖にたけて莫大な財産を築きました。 阮籍と交遊し、竹林の遊びと清談を好みました。 七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃から竹林の七賢と呼ばれるようになりました。 隠者と言われることがありますが、多くは役職についていました。 魏から晋の時代には老荘思想に基づき、俗世から超越した談論を行う清談が流行しました。 しかし、当時の陰惨な状況では、奔放な言動は死の危険がありました。 本書は、いずれも激烈に生きた竹林の七賢について、鋭敏な筆致で簡明に描いています。序章 「竹林の七賢」と栄啓期像/第1章 「竹林の七賢」グループの誕生/第2章 見識と度量の人ー山濤/第3章 嵆康の「養生論」/第4章 方外の人ー阮籍/第5章 劉伶の「酒徳頌」と阮籍の「大人先生伝」/第6章 広陵散ー嵆康/第7章 阮籍の「詠懐詩」/第8章 愛すべき俗物ー王戎/終章 なぜ「竹林」の「七賢」なのか[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]竹林の七賢 (講談社学術文庫) [ 吉川 忠夫 ]『世説新語』で読む竹林の七賢 (漢文ライブラリー) [ 大上 正美 ]