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福沢諭吉は、天保5年12月12日、西暦では1835年1月10日に生まれ、来るべき近代国家の在り方を構想した大思想家です。 ”福沢諭吉 「一身の独立」から「天下の独立」まで”(2024年5月 集英社刊 中村 敏子著)を読みました。 慶應義塾の創設者で西洋の学問や思想を日本に広めた福沢諭吉において、儒学の枠組みと西洋がいかに響き合いどう変化したかなどを紹介しています。 幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家でした。 1858年に慶應義塾の前身の蘭学塾、1875年に一橋大学の前身の商法講習所、1902年に神戸商業高校の前身の神戸商業講習所の創設にも関わりました。 代表作の「学問ノスゝメ」は全部で17編のシリーズもので、初編が1872年に、1876年に最後の第17編が刊行されました。 既存の研究では、武士としての前半生はほとんど重視されてきませんでした。 しかし、未知の文明の受容と理解を可能にするため、何らかの器が必要だったはずです。 本書では、福沢は私的領域を含む社会を見据え、西洋思想の直輸入ではない「自由」と「独立」への道筋を示しています。 中村敏子さんは1952年栃木県宇都宮市生まれ、1975年に東京大学法学部を卒業し東京都庁職員となりました。 退職後、1988年に北海道大学大学院法学研究科博士課程を修了し、同法学部助手となりました。 1994年に北海学園大学教養部助教授、1996年同大教養部教授、1998年同大法学部教授・同大学院法学研究科教授となりました。 北海学園大学教養部長、同学生部長、同就職部長なども務め、2018年に同大を定年退職し、名誉教授となりました。 思想史学としての福沢諭吉研究のみならず、政治思想における女性および家族の位置付けや政治理論も研究しています。 福沢諭吉は幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家です。 諱は範、字は子圍、揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」、雅号は三十一谷人です。 豊前中津藩の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれました。 2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けました。 14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学びました。 その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵の適塾で学ぶようになりました。 お金がなく途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなりました。 1858年23歳のときに、江戸の藩邸で蘭学塾を開くことになりました。 翌年、外国人の多い横浜を訪れ外国人は英語ばかり使い、オランダ語が通用しないことを知りショックを受けました。 英語を教えてくれる人が近くにいなかったため、英蘭対訳辞書を基に独学で英語を学び始めました。 1860年25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸で渡航しました。 アメリカでは、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚えました。 アメリカで英語の辞書のウェブスターを購入し、帰国後は単語集「(増訂)華英通語」を刊行しました。 塾の教育を英学に切り替え、その後も、幕府の使節として欧米を視察しました。 1866年31歳のときに、海外で見てきたことを「西洋事情」という本にまとめました。 1868年33歳のとき、築地の蘭学塾を芝に移し慶應義塾と名付けました。 塾生から毎月授業料を取る形の学校運営は、これが初めてでした。 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で始まる「学問のすすめ」は、1872年から刊行が始まりました。 17冊に分けて1冊の値段を安くして漢字には読み仮名を振り、300万部のベストセラーとなりました。 1879年に東京学士会院、現、日本学士院の初代会長に就任しました。 東京府会副議長にも選出されましたが、これは辞退しました。 1880年に慶應義塾の塾生が激減し財政難に陥りましたが、門下生たちが広く寄付を求めて奔走した結果、危機を乗り切りました。 1881年に慶應義塾仮憲法を制定し、引き続き諭吉が社頭となりました。 1889年に慶應義塾規約を制定し、1890年に慶應義塾に大学部を発足させ、文学科・理財科・法律科の3科を置きました。 1898年に慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立し、政治科を増設しました。 1901年2月3日に脳出血で倒れ死去し、2月8日に葬儀が塾葬とせず福澤家私事として執り行われました。 福沢は、明治期に日本を西洋のような近代国家にしようと奮闘した人物として知られています。 それゆえ、これまで福沢の思想は、西洋からの影響を中心に考察されてきました。 また日本という国家が進むべき方向について考えたことから、国家に関する議論が主たる分析の対象とされてきました。 しかし天保年代に生まれ明治年代に亡くなった福沢は、明治維新をはさみ、前半は武士後半は知識人として生きました。 にもかかわらず、これまでの研究では福沢の明治期の活動が中心で、武士だった時代の影響は重視されてきませんでした。 古い社会を新しい社会へ転換することについて、福沢はどのように考えたのでしょうか。 本書は、幕末から明治にかけての福沢の思想の変化を中心に考察しています。 福沢は、江戸時代から色々な経験をする中で、個人や社会のあり方について考えました。 そこには、江戸時代のさまざまな要素が影響を与えています。 その中で、江戸時代に人々の生活の基盤だった家、つまり家族という集団も福沢の社会構想における考察の対象になっていました。 しかし、政治学の枠組みでは、家族と国家は私的領域と公的領域とに分けられます。 そして、私的領域である家族は社会構想から排除され、考察の対象とされることはありません。 福沢は明治期になってから国家を中心に論じたため、もともと含まれていた家族が後世の研究者による考察対象から省かれました。 そうした偏りをなくし、福沢が家族も含んだ形でどのように社会を構想したのかを示したいといいます。 もうひとつ重要なのは、福沢が若いときに武士の基本的教養である儒学をかなり深く学んでいて、社会構想に影響を与えたという点です。 著者は、福沢が若い頃学んだ儒学の思想枠組みを基礎として持ち、西洋の思想を学んでいったという解釈を採っています。 イギリスでの私的な経験から、外国の事象を理解するためには対応する概念や枠組みを持っている必要がある、と気付いたそうです。 符号としての外国の文字を見るだけでは、外国の観念は理解できないのです。 福沢が西洋を理解するためには、受容と理解を可能にする概念枠組みがすでにあったのではないかと考えるようになりました。 はじめから福沢の思想を読み直した結果、その概念枠組みは儒学だったという結論に至ったといいます。 本書は、再び福沢の思想を儒学の枠組みにもとづき読み直し解釈し直しました。 福沢は、儒学の枠組みを持ちながら西洋の思想を学んだとしています。 その過程で東西の思想はどのように響きあい、どのような変化がもたらされたのでしょうか。 本書では、福沢が最も重要だと考えた「独立と自由」を軸に、思想の変遷を分析し新しい社会において何をめざしたのかを解明したいといいます。 はじめにー「議論の本位を定める」(『文明論之概略』第一章) 一、福沢の前半生ー「一身にして二生を経る」(『文明論之概略』緒言) 二、西洋から学ぶー「文字は観念の符号」(「福沢全集緒言」) 三、『中津留別の書』ー「万物の霊」としての人間 四、『学問のすすめ』ー自由と「一身の独立」 五、『文明論之概略』ー文明と「一国の独立」 六、「徳」論の変化ー「主観の自発」か「客観の外見」か 七、男女関係論ー「一家の独立」 八、理想社会としての「文明の太平」ー「天下の独立」 引用文献・参考文献 あとがき
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2024.08.17 08:19:53
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