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鬼塚ちひろさんのアルバムをはじめて聴いたとき、しびれました。
彼女の実年齢を知ってまた驚き、こりゃ天才に違いない!と確信。 「月光」は、最近の歌ではめずらしく、カラオケで歌えます(えっへん) なので、このところの騒動には、かなり胸を痛めています。 もっともっと歌をつくってほしいのに。彼女の歌が聴きたいのに。 あんなに、あふれるような才能があるのになあ。 私が才能の話を言い出すと、うちのダンナはなぜかランボーの話を出します。 ランボーはスタローンでなく、詩人のアルチュール・ランボーのほう。 いわずと知れた、天才詩人で、詩人ヴェルレーヌによって才能を見出され、 いまにいたるまで多くの詩人たちに影響を与えました。 それなのに、彼はハタチそこそこで筆を折り、あっさりと詩作をやめてしまい、 その後、詩を作りませんでした。 恵まれた詩の才能に全く拘泥せず、商人になり、武器も扱いながら、 (そこそこ成功したようです)人生を終えます。 ランボーが好きなダンナは言います。 「世界中の詩人が嫉妬するほどの才能をもっていたのに、 彼にとっては詩の才能は必要じゃなかったってことでしょ。 もったいない話だけど、まあ、彼にとっては、たぶん 商売のほうがおもしろくなっちゃったんだよね。もしかして 詩人と呼ばれることは、本人はあまりうれしくなかったかもしれないね」 うーん。 「才能」って、なんなんでしょうね。 ある人にとってはその才能が重荷だったり、才能ゆえに傷ついたり、 天分に恵まれても、それが本人にとっては必要のないものだったり。 あることが好きで、さらにそのことについて才能がある、 というときは、とても幸せだと思いますが、 残念ながらミスマッチ、という場合も少なからず、なのかもしれません。 まったくもう。 神様はいじわるだなあ、と思ったりもしますが。 それから、ダンナは続けて、 「自分は昔から音楽が好きで、ずいぶん聴いているつもりだけど、 これは才能があるなあ、と感じるのは1割もないよ」 と超ナマイキなことを申します(ミュージシャンのみなさん、ゴメンナサイ!) 「9割は、きっと猛烈な思い込みや執念を持って音楽の世界にいて、 音楽で飯を食ってる、ということなんだろうけど、 それはそれでいいと思うんだよ。いいな、と思う曲もたくさんもあるし」 私も、小学生のころから、小説家になりたいとほざいていて、 長じて、小説ではないんだけど、なんのかんのと この世界にしがみついて生きていきながら、 いつもいつも才能がほしいと歯ぎしりしてきたものです。 ものすごく強烈な才能があって、 ランボーのように、若くして彗星のようにパッと光って、 ぷっつりとその世界に背を向けてしまう、というのもかっこいい。 でも最近は、あるかなきかの才能であっても、ねばっこく、 いぶし銀のように鈍くしぶとくっていうあり方も、なかなか渋くて良いぞ、 と、思うようになってきました。 こんなふうに、才能がどうしたこうしたと年中上がったり下がったりしている私に、 ランボーやら音楽やら、 そのほかにもいろんな話をして、なぐさめてんだか、煙に巻いているんだか さっぱり分からないダンナの話の結論は、いつも同じで、 「ま、好きなことを、やりたいようにやるしかないんじゃない。人生一度きりだし」 なのです。 そして、私は「そうだよね」と、とりあえずうなずいてしまうのですが。 次の飲み会でカラオケに行ったときには、 カムバックを祈りながら、鬼塚ちひろを熱唱しようっと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.04.29 02:52:42
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