カテゴリ:心
50歳の時に奄美に移り住み、東洋のゴーギャンといわれた孤高の画家、
田中一村を描いた映画『アダン』を観た。 燃えさかる魂の炎に殉じる一村の姿を、 榎木孝明の鬼気迫る演技が伝える。 その姿が壮絶で、映画が終わってしばらく立ち上がれなかった。 「俺は、だれだ?」 画壇から受け容れられず、いつか見返してやろうと、 新たな作風を確立するために、それまで日本画で描かれてこなかった 色鮮やかな南国の動植物に素材を求めて、50歳で奄美に旅出つ。 紬工場で働いて小銭を貯めては、掘っ立て小屋で制作に打ち込む。 自然に分け入り、渓流にジャブジャブと入り、スケッチをする。 描いて、描いて、描いて…… 誰に見せることも売ることもなく、ひたすら描き続けて、 修行僧のような10数年が過ぎる。 死期が近づき、南国の自然の中で、再び問う。 「俺は、だれだ?」 推測だけど、二つの自問の性質は、全く違うように思う。 前者は、自分らしい納得できる作品を描きたいという焦燥感。 後者の奄美で呻く「俺はだれだ?」は、大自然の中にどっぷりと身をおき 命の炎を燃やしている動物や植物と存分に呼応し溶け合いながら 発せられたもの。 もう「自分の画風」も「画壇」もどうでもいい。 自我も自己も消え、ただ、燃えるような何かに突き動かされて描く……。 なんのために? そして、「俺は、だれだ?」 「自分」が意識から消え、存在が純粋になる。 無我の境地、だろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.06.23 02:21:36
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