いつか、その日がやって来るまで。
命を大事にしようとか、時間を大事にしようとか、健康に気をつけようとか……いつものわたしが言っているアレコレが、どれもこれも、しっくりしなくて戸惑っている。若いうちの死、とりわけ同級生の死というのは、いやおうなく人生に向きあわさせられる。それも、特別なナニかでなくて、明日にでもわたしが罹ってもおかしくない病で。現実感のないまま、時間とともにその重みだけがしんしんと心に沈んでいく。知らせてきた彼と少し話しをしたものの、なんとなくいつものようによもやま話をして過ぎてしまった。「去年は2度も喪服を着たよ、なんだか、多かったな……」と、わかれしな、彼はぽつりと言った。「『一期一会』って、なんて重い言葉なんだろうって、思うよ」最近、友人とメールで村上春樹のことを話す。多感なころに夢中で読んだ本というのは、いくつになっても心から離れない。『ノルウェイの森』や『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』……おかしくももの悲しい、つくりものめいた登場人物や情景のなかに放り込まれた「僕」がさまよう魅力的な運命の迷路。ナニかを追って続く果てしない旅は、追っているはずが追われ、つかんだと思うとするりと手の中から消えていく。「“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している”両極は、つねに同じ場所にあるということを、初めてはっきり教えてくれたのは、春樹作品だったと思う」――と、彼女のメール。生も死もの一部。喜びと悲しみは溶け合っている。愛も憎しみもあの人への深い関心。夢と現実はメビウスの輪。すべて境目はにじんでいる。教育テレビの子供番組は毎日毎日同じようなプログラムをえんえんと流している。毎日毎日、野村萬斎がひょうきんなスタイルで踊っている。ややこしや~、ややこしや~裏がござれば、表がござる影がござれば、光がござるややこしや~、ややこしや~また、あのナンバープレートの車が目の前を通り過ぎていった。「はじめまして」と会ったはずが、数年前、ある場所ですれちがっていた。また、同じ夢をみた。また――。この滑稽な物語も、ある日、終わるのだろう。どうやら彼女よりも多少しぶといらしいので、彼女のためにももう少し、この迷路を歩き回り、でこぼこした物語を見届けよう。