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ヤンソギルさんの影響で自分の中での「韓流ブーム」です。
小説を読んでみて韓国が今では立派な経済大国なので想像もつかないですが30数年前には最貧国の一つだったそうです。
記憶の断片にある韓国大統領達を調べてみました。

朴 正煕(パク・チョンヒ)は、第5~9代大統領(在任:1963年 - 1979年)。1944年に日本の陸軍士官学校を卒業。1961年5月16日張都暎(チャン・ドヨン)らとともに軍事クーデターを起こす(5・16軍事クーデター)。韓国中央情報部(KCIA)を発足させ、軍事独裁政治色を強めていくことになる。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。またベトナム戦争への派兵も決定するが、後にアメリカの敗北色が濃くなるに従い、ナショナリスト的な立場からアメリカから離れていく。西ドイツへ労働者を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結やベトナム派兵により有償・無償の資金供与を日米等から受ける様になる。内政においては、国家主導で産業育成をはかるべく財閥、国策企業を通じ、重工業に日米から供与された資金を投入した。この結果、世界最貧国圏から国民所得にして10倍の「漢江の奇跡」と呼ばれる飛躍的な発展を遂げた。農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が起こるが、1970年8月15日の大統領演説で、平和共存を提案。1972年7月4日には南北共同声明を発表した。一方で国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁的傾向を強め、金大中事件など中央情報部による強権的な反政府運動弾圧を行った。1974年8月15日、光復節の祝賀行儀で、在日韓国人・文世光に銃撃を受け、夫人が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。釜山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。

崔 圭夏(チェ・ギュハ)は、大韓民国第10代大統領。朴正煕が暗殺されると大統領に就任した。就任時には早期の改憲と民主化を約したものの、戒厳令下で殆どイニチアシブを発揮できないまま全斗煥の粛軍クーデターを追認せざるを得なかった。

全 斗煥(チョン ドゥファン)は、韓国第11~12代大統領(在任:1981年 - 1988年)。同期には盧泰愚らがいた。朴正煕が暗殺されると暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮する。10月12日に戒厳司令官を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。1980年9月に大統領に就任。1982年には長年続いた夜間外出禁止令を解除した。日米との連携を強め経済を活性化させるが、1983年にビルマでラングーン爆弾テロ事件が起きる。1987年には大韓航空機爆破事件が起き、北朝鮮との関係は緊迫度を増した。クーデター直後に金大中を逮捕、これに反発して光州で暴動が発生、流血の惨事になった(光州事件)。金大中は軍法会議で死刑判決を受ける(後に無期懲役に減刑)ものの、1982年にアメリカに出国。1987年以降には改憲・反政府運動も活発化し、7月には政権移譲を表明。退任後には利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、1988年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明した。その後も光州事件や不正蓄財の追及が止まず、死刑判決を受けた(減刑の後、特赦)。2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。

盧 泰愚(ノ・テウ )は、第13代韓国大統領(在任:1988年 - 1993年)。
大邱出身。朝鮮戦争勃発に伴い入隊し、陸軍士官学校で全斗煥と同期。空輸特戦旅団長・第9師団長などを歴任し、1981年に退役。
1987年に高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として“オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある”と声明(6・29民主化宣言)。直後、16年ぶりに行われた選挙で大統領当選。全斗煥政権時代の不正容疑を徹底追及する一方で、激しく対立していた金泳三・金鍾泌を与党に取り込むなど国政の安定を図った。外交面ではソビエト連邦・中華人民共和国など共産圏との関係改善に乗り出し、1991年9月17日には朝鮮民主主義人民共和国との同時国連加盟を実現させた。退任後の1995年に政治資金隠匿が発覚。さらに粛軍クーデター・光州事件でも追及を受け懲役刑を受けた(後、特赦)。

金泳三(キム・ヨンサム)は、第14代韓大統領(在任1993年 - 1998年)。1970年代から1987年代にかけて金大中とともに代表的な野党政治家の一人であった。1987年に全斗煥の退任に伴って行われた韓国第13代大統領選挙にて金泳三と金大中が共に盧泰愚に敗北した後、1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生した)。この後、民主自由党の大統領候補となり、1993年に韓国第14代大統領選挙にて大統領に当選した。
文民政府と呼ばれる在任期間の間に色々な民主化改革や財閥改革、金融実名制などを試みたが、任期終盤の1997年に東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(アジア通貨危機)にて、韓国も起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。IMFの援助を要請する事態となったことは韓国国民からは恥辱的とも受け取られ、そのまま任期で大統領を退任する。

金大中(キム・デジュン )は、第15代大統領(在任:1998年-2003年)。十月維新後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだが、東京滞在中の1973年8月8日に韓国中央情報部によって拉致され、ソウルで軟禁状態に置。1980年2月19日には公民権を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で暴動が発生・流血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で死刑判決を受けるが、無期懲役に減刑の後、1982年12月23日に刑の執行を停止・米国への出国を許可される。
1985年2月8日に帰国し、1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これを以って金大中は政界引退を表明した。 その後研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。大統領に就任すると、経済改革に着手すると共に北朝鮮に対し太陽政策と称される穏健な姿勢で臨んだ。2000年に、北朝鮮の平壌で金正日との南北首脳会談が実現。南北首脳会談などが評価されノーベル平和賞を受賞した。韓国国内での日本大衆文化開放を始めたのも、金大中政権からである。経済政策においてはIT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)を以って経済建て直しを図った。これにより韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招き、元々の彼の支持層に当たる労働者の反発を招いた。
朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより地域対立の打破が期待されたが目覚しい成果を上げることが出来なかった。

盧武鉉(ノ・ムヒョン、1946年8月6日 - )は第16代大統領(2003年 - )。前大統領の金大中の後継者として太陽政策を継承する。慶尚南道金海市進永邑(チニョンウプ)の貧しい農家に生まれた。1978年弁護士に転じ、人権派弁護士として活動する。与党の座を確保した新千年民主党であったが、全羅道を基盤とする金大中派と盧武鉉を中心とする主流派との間で与党内抗争が激化。主流派がウリ党を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は政権運営で苦境に立たされた。
与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上し、経済運営も難航、イラク問題や対北朝鮮問題等で採った親米路線がたたり支持率は急落。起死回生を図るべく国民投票による信任を提案するが各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。
総選挙を控えた2004年3月9日に野党であるハンナラ党、新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議。これに対し事実上の与党であるウリ党が物理的に法案可決を阻止すべく議長席を占拠したので国会には一時緊張が走った。3月12日、議長席を占拠したウリ党員が排除され、行われた投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時首相だった高建が大統領職務代行を務めた。しかし、野党の予想に反し保守層も含め世論が弾劾訴追に反発、総選挙でのウリ党の地すべり的勝利につながり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。現在に至る。
長くなりましたが記憶の中にある韓国大統領とその略歴と出来事でした。それぞれが記憶にはあるのですが整理してみると驚くことも多かったです。こういった繋がりが分かると本の内容も理解もしやすいですね(^^ゞ

出典: フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」





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Last updated  2005年04月03日 16時23分53秒
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