沖縄集団自決 梅澤隊長の濡れ衣
第二次世界大戦中の昭和19年9月、氏は少佐として沖縄慶良間列島の座間味(ざまみ)島守備隊長に着任した。
「沖縄に到着し、軍司令官の牛島満中将に挨拶し、座間味島に向かいました。敵が泊地にするのに適った地形の島で、私は山の側面に穴を掘り、壕の中に船、爆雷、兵器、食糧を隠させました。島の人たちは純真そのもので、若い兵隊たちを大事にしてくれました」と氏。
戦局は激しくなり、米軍の日本攻撃は熾烈さを増す。沖縄への艦砲射撃も同様だ。梅澤隊長は彼我の圧倒的な戦力の差を実感、「ベテランの軍人」として日本の敗北を悟った。
いよいよ明日にも敵が上陸という翌20年3月24日夜10時頃、司令本部の基地隊に、村民代表5名が訪ねてきた。助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長だった。
助役の宮里盛秀氏が言った。
「いよいよ敵が上陸しそうです。長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」
梅澤氏は本当に驚いた。「戦国時代の物語として聞いたようなことを、まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語る。
だが、宮里助役は続けた。
「自決の方法がわかりません。我々皆が集まって円陣を作ります。その真ん中で爆薬を爆破させて下さい」
「そんなことは出来ない」と梅澤氏。
「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」と宮里助役。
「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」
梅澤氏は諭して、5人に言った。
「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」
翌日、文字どおり地獄の戦闘が始まった。梅澤氏は部下の6割を失って、遂に敗北した。戦闘に没頭していた氏らは、住民たちのその後の動き、約800名中172名が集団自決した事実を知らなかった。・・・
戦後、全ての日本人がそうであったように、沖縄の住民も食べるに困った。特に沖縄は烈しい戦闘で焼き尽くされ、多数が亡くなった。国の援助を申請したとき、自決というだけでは、軍人でもない一般住民への援助は無理だとされた。そこで考えられたのが、軍によって自決命令が下されたという理由づけだった。
家永三郎氏の『太平洋戦争』、中野好夫・新崎盛暉両氏の『沖縄問題二十年』、大江健三郎氏の『沖縄ノート』などによって喧伝され、「梅澤=集団自決命令=軍国主義の悪」の構図が強調された。ノーベル平和賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は1970年の出版以来、49版を重ねている・・・・昨日教科書検定?のニュースでNHKはいまだにこの論調でした。
渡嘉敷島の集団自決ー赤松大尉の善意
少なくとも集団自決の件では今まで事実とされてきたことは嘘であり、赤松嘉次元大尉のように、沖縄の犠牲者が年金や弔慰金を受け取れるように、自己の名誉を犠牲にした方もいるのです。
NHK・・・「犠牲者が年金や弔慰金を受け取れるようにした善意」より「すべて日本軍が悪い」としておきたいようです。