なぜ、この時期、橋川は 「戦争体験の思想化」 というようなことにこれほどこだわったのだろうか(私は、橋川の忠実な読者ではないので、ひょっとしたらこの時期以降にも、同様の発言を繰り返していたのかもしれないが、今は分からない)
当然のことながら、個々の即自的で直接的な経験そのものは、時間の経過とともに風化を免れない。近代以前のように、時間の流れが目に見えぬほどゆっくりとしていて、世代を越えて歴史を共有することが可能な時代ならばともかく、つねに急速な変化を続けてゆく現代では、このことは誰にも押しとどめることはできないことだ。
だがさらに厄介なのは、そのように直接的で具体的な経験が風化していくことによって、かえってイデオロギー的な類型化された 「神話」 への変容が、意識的にまた無意識的に進められていくということだ。実際、純然たる戦後世代の現首相らが、「国のために殉じた人々」 であるとか 「尊い犠牲」 とかいうとき、また 「靖国問題」 が政治問題化する中で語られるときの言葉は、具体的な体験からは程遠いイデオロギー的言説以外のなにものでもあるまい。
経験を超えた普遍性を目指すこと、それによって経験そのものの風化を超えた体験の継承も可能なのではないのか。橋川が言いたかったことは、そういうことなのだろう。これは、主張としては首肯しうるように思える。
しかし、ことはそれほど簡単なのだろうか。いや、橋川が同じようなことを何度も何度も説き、また若い世代(若いといっても、彼に比べればのことであって、けっして戦争についてまったく知らない世代なのではない)による無理解を嘆かざるを得なかったということは、彼の主張が決して自明なものではなかったことを示しているように思われる。
彼は世代論を否定し、自分もまた自分自身の固有の体験に固執するつもりはないというような意味のことを言っている。そのため、あの太平洋戦争とその敗戦の持つ意味を、師である丸山真男の 「第二の開国」 というような言葉も引きながら、執拗に展開するのである。
あの戦争と敗戦が、近代日本の歴史における稀有の出来事であったことは言うを待たない。国家と国民の総力をあげた戦いは連合軍による徹底的な破壊による無条件降伏で終結し、明治以来営々と築かれてきたすべてのものがいっぺんに崩壊してしまったように思われた。外国軍による全面的な占領というのも、もちろん初めての体験であった。
戦争中まで声高に叫ばれていた価値観が180度転回し、天皇は 「万世一系」 の 「神聖にして侵すべからず」 という存在から、国の 「象徴」 という存在に変化した。軍国日本の虚像は、東条英機らの戦争指導者が極東軍事裁判で裁かれることによって暴かれた。
しかし、このような変化がすべての人によって主体的に受け止められたわけではないことも多くの人によって指摘されていることだ。責任の所在を曖昧にした 「一億総懺悔論」 はもちろんであるが、かつて戦争を鼓吹し、万世一系の天皇を戴いた日本民族の東洋の盟主としての任務を説いていたような学者・知識人の多くが、ある者はなんの反省もなしにマルクス主義者に再転向して、過去のことはすっかり忘れたかのように平和の旗手に転向して見せたり、「五族協和」 や 「八紘一宇」 を説いていた者がそのまま横滑りに 「文化国家」=「平和国家」 としての日本の使命を説くといった、無責任な戯画としかいいようのない光景が現出したのではなかっただろうか。