第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは実を持って体験し痛感した。 西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判を柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及浸透を任務とする出版人の責任でもあった。
これは、今も角川文庫の奥付の裏に掲載されている、角川書店の創業者である角川源義による 「角川文庫発刊に際して」 と題された文の一部である。日付は1949年5月3日、意図したのかどうかは分からないが、くしくも現憲法が施行された日からちょうど2年後の 「憲法記念日」 にあたっている。
角川源義は俳人としても有名な人物だが、1917年に生まれ1941年に国学院を繰り上げ卒業して徴兵されたということだ。早くから国文学に目覚め、折口に傾倒して国学院に進んだそうだから、保田与重郎に代表されるような当時の国粋主義的な思潮に染まっていたのかもしれないが、それ自体は当時としては珍しいことではない。戦争中に青春を送った多少とも知的な若者としては、よくあるタイプだったのだと思う。
その彼が戦後間もなく角川書店を設立し、老舗の岩波文庫に対抗するようにして創刊した角川文庫の発刊の辞として書いたのが、上の文章である。ここには、敗戦による衝撃によって過去を捉えかえし、新たに出発しなおそうという決意が感じられる。これは、橋川の言う 「戦争体験の思想化」 ということと繋がるものだと、私は思う。
戦争中の橋川が、戦争という現実にいかに深くのめりこんでいたかについては、たとえば年長の友人であった宗左近(詩人)の出征を送る場でのやりとり(のちに仏文学者としてサルトルやカミュの紹介をすることになる白井健三郎が 「生きて帰って来い」 といったのに対し、橋川は激昂して殴りかかったという)(宮嶋繁明著 「三島由紀夫と橋川文三」 より)といったエピソードがある。
年長の世代が、軍国主義以前のリベラルな雰囲気やマルクス主義の理論に触れ、戦争を相対化する目を持っていたのに比べ、1922年生まれである彼にはそのような視点は持ちようもなかったのだろう。 (戦前の左翼運動はいうまでもなく非合法であったが、1935年の神山茂夫らの検挙で最終的に壊滅したものと思う)
この点では橋川と彼の師である八歳年長の丸山との違いは明瞭だ。
橋川は一高文芸部では先輩らからも一目置かれるほどの存在だったというが、彼が文学を捨て政治学者=政治思想史家を志すようになった契機が、敗戦という衝撃であったことは間違いない。(たとえば、橋川は太宰治との面会を回想した文の中で、「ぼくは、戦前、文学少年だったことはあるが、その頃はもうそのような児戯とは縁を切ったつもりでいた」 と書いている。また、このことは、彼の思想的な盟友の1人であった吉本の 「文学的発想だけでは駄目だと思った」 というような言葉にも通じると思う)
つまり、当然のことではあるが、橋川が 「戦争体験の思想化」 ということにこだわる根底には、戦争中、超国家主義と軍国主義に骨の髄まで冒されていたという彼自身の 「個人的な体験」 が存在しているのだ。むろん、このことは彼自身の思想を傷つけるものではない。自己の体験に根ざさぬ思想など、ただの流行の借り物衣装に過ぎないからだ。昭和の超国家主義にいったんは毒された過去があったからこそ、その毒を深く追及することも可能だったとも言えるだろう。
要するに橋川の主張は、敗戦は明治維新にも匹敵する巨大な歴史的事象であり、またそのように捉えるべきだということに帰着するだろう。