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カテゴリ:科学・言語

 ずいぶん古い話だが、物理学者の武谷三男が 「武谷三段階論」 というのを提唱したことがある(もちろん、私の生まれる前のことです)。これは自然科学における理論の発展を現象論-実体論-本質論の三段階で捉えるもので、たとえば次のように説明されている。

 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行われる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、ヘーゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当たるものであって、(中略) これを現象論的段階と名づける。

 第二に現象が起こるべき実態的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こるということを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれはpost hocという言葉で特徴付けられるもので、これは概念論の言葉でいえば特殊的判断といえるものである。(中略)fur sichの段階でその法則は実体との対応に形において実体の属性としての意味をもつのである。これを実体論的段階と名づける。

 第三の段階においては、認識はこの実体的段階を媒介として本質に深まる。これはさきにニュートンの例において示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。(中略)an und fur sichの段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である。すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにするものである。これを本質論的段階と名づける。 
 武谷三男著作集 「弁証法の諸問題」 より 



 以上は戦争中の1942年に発表された 「ニュートン力学の形成について」 という武谷の論文から引用したものだが、ここで彼はニュートン力学の成立にいたる理論発展の歴史を、天動説の支持者ではあったが正確で膨大な天体観測の資料を残したティコ・ブラーエを 「現象論的段階」 に、彼の資料を整理して惑星運行の法則を発見したケプラーを 「実体論的段階」 に、そして万有引力の法則という形で惑星運動の根拠を解明したニュートンの理論を 「本質論的段階」 と呼んだのである。

 武谷によれば、この三段階という発展は一回限りのものではなく、「この三つの段階を繰り返して進む」 すなわち一つの環の本質論は次の環から見れば一つの現象論として次の環が進むというぐあいである」 ということだ。

 高校時代、物理はまったく苦手だったので、力学の発達について論じる資格などはまったくないのだが、科学的 (学問的) な認識は、現象の記述からその背後に隠れている一般的な構造や法則の認識に向かうという意味では、以上の武谷の主張は理解しうると思う。

 この武谷の主張は観念論者ヘーゲルの概念論を参照したためもあってか、戦後復活した旧唯研系の党主流の理論家から、同じ武谷の技術論 (技術とは客観的法則性の意識的適用である) とともに観念論であるとして、いっせいに攻撃を受けた。

 だが、その一方で三浦つとむや田中吉六 (岩波文庫版 『経哲手稿』 の翻訳者)、黒田寛一 (トロツキストに移行する前) らによって支持され、哲学者の梅本克己の問題提起によって始まったいわゆる 「主体性論争」 の論題の一つとしても取り上げられた。ただし、この武谷三段階論が現在どのような評価を受けているのかは、専門的な研究者ではないので分からない。

 ただ、秀さんによる 「抽象化」 についての主張を読んでいるうちにこのことを思い出したのだ。社会的事象であれ、自然的事象であれ、個々の事象は他の事象による様々な影響等を受けているから、当該の事象についての認識を進めるためには、とりあえず他の事象による影響のような非本質的な部分を除去しなければならない (たとえば、落下法則の認識における空気抵抗の除去など)。

 この場合は、対象の認識の障害になる特殊性を除去することであり、たんに捨象することだ (このような特殊性は、とりあえず 「特殊なものの特殊性」 と呼ぶことにする。言語で言えば、たとえば日本語や英語などでの品詞の分類がそうだろう。英語の前置詞や冠詞は日本語にはないし、日本語の助詞は英語にはない。そのかわり、そのような語の役割は、それぞれ別の語や形式で担われる)。

 現実に存在するのは、いうまでもなく個々の特殊な事物である。簡単にいえば柿やリンゴは存在するが、果物一般なるものは存在しない。同じように、実際に存在するのは日本語や英語といった個別の特殊な言語であって、抽象的な言語一般なるものは存在しない。

 しかし、現実に裸のままでは存在しないものの、言語一般の 「本質」 というものを考えることはできるだろう。実際、英語にも日本語にも一般的に共通するなにかが存在していなければ、翻訳も通訳も不可能だということになる。つまり、日本語とか英語とかの特殊な言語にも、当然のことながら言語としての一般性が存在するはずだ。

 これを、上で言った 「特殊なものの特殊性」 に対比して、「特殊なものの一般性」 と呼ぼうと思う。ようするに、特殊性と一般性は外的に対立しているのではなく、特殊性の中に一般性が潜み、また一般性は特殊性を貫くという形で存在しているということだ。ヘーゲルの言う 「特殊性」 と 「一般性」 とは、一般にそういう意味である。

 このように、個々に存在する特殊なものからその中に潜む 「一般性」 を抽出することが、論理的な抽象という働きなのではないだろうか。これは、「特殊なものの特殊性」 を捨象することとは違う。捨象とは余分なものを切り捨てることだが、論理的な抽象とは個々の特殊な対象の中に潜む 「一般性」 を抽出することであって、一定の問題意識に合わない部分を、余計なものだとして、そのかぎりで恣意的に切り捨てることとはまったく違う別のことだ。

 ヘーゲルが 「止揚(揚棄)」 と呼んだのは、このような思惟の働きのことなのではないだろうか (ここで 『小論理学』 を引用したいところですが、ややこしいのでやめておく)。

 自然科学と社会科学とでは、法則性の認識などでは当然大きな違いが出てくるだろう(このへんも、新カント派のリッケルトの 『文化科学と自然科学』 以来、いろいろ論争があるのでしょうが、よう知らんのでおいときます)。しかし、たとえ科学ではなくとも学問と名がつく以上、個別事物の認識で終わるはずがない。いや、そもそも人間の認識はつねに一定の論理的抽象を経なければ可能ではないだろう。もちろん表現についても、同じことだ。

 人間の頭脳は鏡ではないのだから、対象をそのまま映すなんてことはありえない。つねに何らかのレベルで、対象に潜む 「一般性」 を抽出するということをやっているはずである。もちろん、一定の問題意識に合わせて対象の一定の側面に焦点を合わせ、他の側面についてはとりあえず (     ) に入れておくということは、認識を進めていくうえでの手順としてはありうるだろう。

 ただし、そのようにして得られた認識は、そもそも一面的な限定されたものだ。たとえば、宗教というものをその社会的機能に着目して解明するというやり方は、別に否定しない。しかし、そのようにして得られた認識は、「宗教とは何か」 という一番の問いを (     ) に入れとりあえず棚上げにすることで得られた認識であって、本来の問いにはちっとも答えていないような気がする。






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Last updated  2009.09.27 16:35:49
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