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 父と子の相克というのは、ツルゲーネフの 『父と子』 とか志賀直哉の 『和解』 など、多くの近代文学のテーマになっている。青森の大地主の家に生まれた太宰治もまた、父親が亡くなってからも、父という存在に反抗し続けた人だと言っていい。しかし、その一方でそのような反抗が、しばしば 「甘え」 の一つの形態であることも否定できないだろう。

 いささか奇矯な比喩かもしれないが、親に死なれるということは時間という見えない敵、しかも人間にはけっして勝ち目のない敵との戦いの中で、始めは隊列の後方にいたはずなのに、気がつくといつの間にか前方の部隊がすべて倒され、戦いの最前線に立たされているといった感覚で表されるような気がする。

 もちろん若くして親に死なれた人にとっては、それ以上に現実的な困難が存在するのだろうが、そのような感覚は、たぶん親の死をいくつで迎えても変わりないだろう。

 私の父は旧制高等学校といわゆる帝国大学をでた人で、困った意味での 「エリート意識」 が終生抜けない人だった。そのまた父はもともと田舎の神官の家の出で、旧制中学校の教師となり、校長まで務めた人だったそうだ (小学生のころに亡くなったので、いくらかの記憶はある)。

 祖母のほうは小学校の教師だったそうだから、丸山の定義で言えば、インテリと亜インテリの境目あたりに位置するということになるのだろうか。だが、ほんとうはそんなことはどうだっていいのだ。

 何事も自分が一番という意識が強烈な人で、人付き合いはけっしてうまいほうではなかったから、学歴こそ高くても、現実社会では必ずしも上手く立ち回れるほうではなかったろう。

 「寮歌祭」 などという回顧趣味のじいさんたちの集まりには、はかまに下駄、破れ帽子という時代遅れの格好で必ず参加し、晩年はなぜかベートーベンの 「第九」 合唱に凝りだして日本中はおろかウィーンまで遠征し、さらには右翼イデオローグを自認して、南京虐殺や朝鮮人の強制連行、慰安婦の存在に異を唱える活動を始めたりと、まあ一言で言えば、「天下国家」 を論じるのが三度の飯より好きだという困った人だったのだ。

 当たり前のことだが、子どもは親の人生のせいぜい半分しか知らないものだ。私は父が38歳のときの子で、しかも大学卒業と同時に勘当同然で家を出たので、たぶん三分の一ぐらいしか知ってはいない。

 父親への反感のようなものが芽生えだしたのは、たぶん高校のころからだったように思う。高校時代は勉強をほとんど放棄して文学にのめりこみ、大学に入ってからはいっぱしの活動家を気取って九州くんだりから狭山だ三里塚だと、東京や成田の集会までわざわざ出かけたものだ。

 年老いた父が私のことを、こいつは学生時代ノンセクトラジカルで大学の玄関のガラスドアを割ったことがあるなどとなにやら自慢げに人に紹介しているのを横で聞いて、あきれてしまったものだが、俗気と反俗気が奇妙に入り混じった人だったのだなと思う。

 うちの同居人に言わせると、最近私は父に似てきたそうだ。そう言われると、父に比べると一見おとなしそうで協調性がありそうに見えるが、腹の中ではやはり自分が一番だと思っている。

 それに、知識をひけらかすことや大言壮語が好きなところ、やたらと人に論争を吹っかけたがるところなどは、やはり父に似ているのかもしれないと思うようになった。いや、そのようなところを父のように表面には出さずに、腹の中に隠している分だけ、私のほうが厄介なのかもしれない。

 戦争で父が送られたのは、激戦地のビルマだったそうだ。そこで最後はマラリアに罹り、イギリス軍の野戦病院に入れられて九死に一生を得たというような話を、自費出版した本に書いている。そこでの生と死は文字どおり紙一重の差しかなかったのだろう。

 だが戦後一サラリーマンとして生きてきたはずの父が、なぜ七十を過ぎてから、年賀状では西暦の代わりに皇紀を記し、憲法改正や 「自虐」 史観批判の運動に携わるようになったのかは、今でも謎のままだ。






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Last updated  2010.01.29 15:07:21
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