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 ある政治的変革の最終的な結果として、たとえば近代資本主義的な経済体制が成立したから、その政治的変動が市民革命だと結論付けるのは、単なる結果解釈に過ぎない。歴史の解釈がそれだけの結果解釈ですむのなら、その途中の具体的な政治過程を一つ一つ細かく検証していく作業は理論的な意味のない無駄な作業であり、せいぜい暇な好事家にでも任せておけばいいこということになる。

 いや、そもそも歴史というものは、どの一部をとって見ても、なんらかの単一の結果=目的を目指して進む、統一的な過程などではない。その中には様々な意思や利害に基づいた多様な力が存在しており、そのような力のひしめき合いの結果として、最終的にある結果が生み出されるのだと言った方がいいだろう。

 明治維新について言うならば、これによって最終的にある程度近代的な社会が成立したことは言うまでもない。そのことの「革命性」自体を否定する人は、たぶん一人もいないと思う。しかし、そこへいたる過程を細かく見ていけば、欧米の圧力の下で日本が生きていくためには、指導者たちの主観的な意思や好みがどうであれ、欧米に手本を取った「近代化」を選択せざるを得なかったということなど様々な要因があるわけで、単純な結果解釈だけですむ話ではない。

 フランス革命が市民革命であったことは、その担い手が新興市民階級であったことからも明らかである。では、日本の場合はどうだったのか。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允などの当時の指導者は、確かに欧米の事情にも詳しく進取の精神にもあふれた人達であった。また、一部には武士ではなく、町人や農民の出身者がいたことも事実だろう。だが、幕末から維新にかけての変動を担った指導者らを、総体として市民階級の政治的代表者と呼ぶことは到底できないことだ。

 明治維新をどう捉えるのかについては、戦前の労農派と講座派による「日本資本主義論争」以来、様々な議論が行われてきた。大雑把に言えば、労農派は維新をブルジョア革命として捉え、講座派はそれを否定し「絶対主義的天皇制の成立」とする立場であったと言えるだろう。

 論争というもののつねで、この論争も結局結論が出たわけではない。当然、どちらの主張にも間違いや行き過ぎはあっただろうし、とくに講座派の側の主張が、市民革命という概念についてフランス革命のような個別の事例をあまりに理念化しすぎていたために、最終的には日本の近代化そのものを否定しかねないような教条的で硬直したものになってしまった感は否めない。

 しかし、明治維新が「市民革命」ではないとした講座派の側には、日本の歴史の解釈をヨーロッパの歴史的発展の中から取り出された一般的な原理の機械的適用や、単純な結果解釈だけで片付けるのではなく、日本という固有の社会の歴史的発展の特殊性を、実際の歴史に沿って具体的に明らかにしようという問題意識があったのであり、そのことは現在でも高く評価されるべきだと思う。

 論理的理論的なつじつまが合うことは、もちろん合わないよりもいいことである。しかし、だからといってそのことだけを至上価値にすれば、理論は現実とかけ離れたただの「空理空論」になってしまう。そのような「理論」と「現実」の剥離を、丸山はかつて「理論信仰」と「実感信仰」の対立という言葉で表現したのではなかっただろうか。

 歴史を含めた人間的社会は、生命のない無機的世界のようには一筋縄ではいかないものだ。だからといって、人間的社会を扱う研究者は、数式や理論ですっきり割り切れる自然科学の世界をうらやむ必要もないし、「おれたちのやっていることは科学じゃないのだ」みたいな変な劣等感を持つ必要もないだろう。

 単純な理論だけでは割り切れないところに、人間的社会の特性があるのであり、またそこにこそ自然科学とは異なった社会科学の醍醐味と面白さというのもあるのだと思う。






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Last updated  2009.05.16 23:53:19
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