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カテゴリ:思想・理論

 学問が理科的学問と文科的学問に分化したのは、いつのころからだろうか。
 
 ギリシア・ローマなどという大昔のことは別にしても、画家のダ・ヴィンチは築城術などにも長けた当代一流の技術者であったし、パスカルは数学の天才で計算機を発明した人である。「単子論」 で知られる哲学者のライプニッツもまた、ニュートンとの微積分の特許権(?)をめぐる争いで知られているように、優れた数学者でもあった。直交座標を考案したデカルトのことは言うまでもないだろう。

 一つ一つの学問がそのような時代よりも高度化し、専門化している現代では、理科的学問と文科的学問の両方を修めるのは、確かになかなか難しいことだ。いや、それどころか、同じ理科系、同じ文科系の中でも、複数の学問をきちんと修めることは困難なことだろう。現代でこの両分野で成果をあげた人というと、ぱっと浮かぶのは哲学者でもあり数学者でもあったラッセルぐらいなものだろうか。(まあ、この人は長生きしましたからね)

 一つ一つの学問はそれぞれに独自の対象領域を持ち、それに応じて方法論も異なる。理科的学問の特色としては、数学的方法論ということがよく言われる。しかし、文系の学問である経済学でも、数学は欠かせないものだ。

 「理科的発想」 と 「文科的発想」 みたいなことを言う人をたまに見かけるが、それはちょっと違うのではないかと思う。むしろ問題なのは、「論理」 と 「感性」 ということではないだろうか。

 いささか証明抜きの直感的な話になるが、文系の学者であれ理系の学者であれ、優れた業績をあげた人というのは、この二つを兼ね備えた人のことだと思う。

 論理というものには、しばしば対象の現実的な特殊性を無視して暴走しがちなところがあるように思える。それが極端になると、空回りを始めて、いわゆる 「空理空論」 みたいなことになるのだろうが、そのような論理の暴走を抑えて、具体的な現実に引き戻す役割をするのが 「感性」 の力ではないだろうか。

 それに、学問に必要なものが 「論理」 だけだとしたら、論理というプログラムを備えた巨大なコンピュータさえあればいいということになりはしないだろうか。だが、どんな学問でも、最初の問いを立てるのは、なにかを不思議だと思う人間の生きた感性の働きだろう。またときには論理が行き詰ったときに、たとえ最初はいささか根拠のうすい、非論理的な飛躍のようであったとしても、新しい発想を生み出して広々とした地平へと思考を誘うのも、「直感」 を含めた 「感性」 の力ではないだろうか。

 だから、理科的学問でも 「感性」 は必要だろうし、逆に文科的学問でも 「論理」 は必要だ。いや、むしろ文科的学問の場合には、物理化学のような実験や同一の現象の再現ということが不可能な分だけ、論理的思考の力は必要であり重要だということが言える。とりわけ、すっきり明快な数式化が不可能な分野ほど、かえって論理的思考の重要性はますのではないだろうか。 

(一言付け加えておくと、数式の威力というものは、思考を節約できるところにあるのだと思う。日本の降伏直前に獄死した戦前の哲学者、戸坂潤が、かつて 「公式主義」 について語っていたことも、要するにそういうことになると思う)

 大昔のアリストテレスを持ち出すまでもなく、論理というものは今日の 「理科的学問」 がおぎゃーと生まれてそれまでの学問から分化する前から、哲学という今日でいう 「文科的学問」 の中で誕生し、鍛え上げられてきたものだ。

 だから、論理というものはなにも 「理系的発想」 に特有のものではないし、「理系的発想」 の独占物なわけでもない。言語学であろうと心理学であろうと、法学であろうと政治学であろうと、論理のないところにはいかなる学問も成立しえないのであって、そのことは俗に言う 「理系的発想」 だとか 「文系的発想」 などということとはなんの関係もないことだ。

 理系へ進む人間が文系へ進む人間より優秀だなどとは限らないし、またその逆のことも言える。人はそもそも 「理系」 だろうと 「文系」 だろうと、自分が関心を持った領域へ進めばよいだけのことであり、どっちが上だとか下だとかいう話ではあるまい。理系出身の人間は論理的で文系出身の人間は非論理的だなどというのは、それこそ単なる 「偏見」 に過ぎないと思う。

 どっちの世界であろうと、学問を修める上で最終的に試されるのは論理的な思考能力である。かりに、たまたま文系出身者に論理力の弱い人間が多いように見えるとしたら、それは単に、大学入試を含めた現在の文系科目の試験が、論理的思考力よりも単なる暗記力を試すようなくだらぬ出題が多いということの結果に過ぎまい。しかし、どちらの世界にも、論理に優れた人間もいれば、そうでない人間もいるものだ。ただ、それだけのことである。

 またこのことは、理系と文系を含めた 「学問」 の世界の話だけでもない。たとえばトーマス・マンの 「魔の山」 だとか、あるいは大西巨人の 「神聖喜劇」 のような優れた文学の中にも、読者は単なる感性だけでなく、強靭な論理的思考の跡を見出せるはずだ。


追記 (2008/6/2)
「文系的発想」 と 「理系的発想」 の間にしいて差異を見つけるとすれば、自己を含む 「人間=主体」 を組み込んだ論理を構築しうるか否かにあるのではないだろうか。






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Last updated  2008.06.02 22:04:25
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