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カテゴリ:思想・理論
自然科学であれ、社会科学であれ、「科学」 というものが、少なくともなんらかの 「実体」 について、もしくはそのような 「実体」 と結びついた 「現象」 について研究するものであることは、誰しも認めることだろう。 中世ヨーロッパの 「スコラ哲学」 では、天国の天使は 「大天使」 をはじめいくつの階級に分かれているかとか、またそれらの天使にはそれぞれ何枚の羽があるのか、といった問題について、真剣な議論が展開されたそうだが、そのような議論が 「真面目な学問」 であると思う人は、現在ではたぶんいないだろう。 「科学」 というものの定義については、ここでは論じないが(というか、そういうスコラ的な議論にはあまり関心がないのだが)、少なくとも 「科学的」 であろうとする学問は、なによりも具体的に存在するものを対象とするのであり、したがってまずは 「客観的」 に存在する 「実体」 もしくは 「実体」 と結びついた 「現象」 を対象とするということだ。 しかし、「真理」 を追究しようという 「科学的な精神」 は、そのような 「客観的に観察可能」 な 「実体」 や 「現象」 だけにいつまでも留まっているわけにはいかない。それは、たとえば 「価値」 とか 「表現」、「意識」 などといった直接手で触れることができず、また、観察する主体である人間自身が、同時にその認識対象でもあるような 「人文科学」 や 「社会科学」 だけに限定されるわけではないだろう。 ガリレオが 「すべての物体は等しい重力を受けて、同じように落下する」 という 「等加速度運動」 という原理を発見したことは、中学生でも知っている(と思う)。それまでは、重いものは軽いものよりも早く落ちるというアリストテレスの主張が、ほとんどの人々によって信じられていた。 ガリレオは、そのような 「常識」 をひっくり返してしまった。しかし、日常的な経験では、やはり重いもののほうがいくぶんか先に落ちる。鉄の球と羽を同時に落とせば、誰が考えても重い鉄の球のほうが先に落ちる。その理由はもちろん、鉄よりも軽い羽のほうが空気の抵抗を受けやすいからだ。 ガリレオには、ピサの斜塔から大小二つの球を落として同時に落ちるという実験をして見せたという話があるが、実際はこれは後世の人が作った 「伝説」 なのだそうだ。そういう実験を実際にやったら、たぶんやはりいくらかは差が出ることになるだろう。 ガリレオが生きていた当時、空気の抵抗を完全に除去して落下実験を行えるようなどでかい 「真空実験室」 を作ることは不可能だったろうし、今だってそう簡単なことではない(めちゃめちゃ金がかかります)。 では、ガリレオはどのようにして 「等加速度運動」 という原理を発見したのだろうか。詳しい経緯はたぶん 『新科学対話』 などの彼の著書を読めば書いてあるだろう。斜面で球を転がす実験などを何度もやったそうだが、面倒な話は抜きにしよう。ようするに、大事なことは、「客観的な実験」 などをいくら繰り返しても、それだけでは 「真理」 を見つけることはできないということだ。 「客観的に観察可能」 な実験や経験の背後に隠れている本質的な法則を見つけ出すために必要なのは、なによりも人間の 「理論的理性」 の力であり、同時に、そのような人間の理性には 「本質」 を把握する力があると信じる強い信念だろう。「真理」 というものは、そう簡単には姿を現してくれないのだ。 「機能」 について論じることがすべて無益だとか、なんの役にも立たないなどといった暴論を言うつもりはない。それは、認識上の一つの手順や方法論としてはありうるだろう。 しかし、「人間的社会」 であれ、「意識」(こころ)であれ、あるいは 「宗教」 であれ、対象それ自体に迫ることや、対象を全体として認識することを放棄して、「客観的に観察可能」 な 「機能」(あるいは 「効用」)や 「行動」 といった現象だけに対象を絞ったり、あるいはそのような 「機能」 や 「現象」 の認識をもって本質についての認識にすりかえたりする 「機能主義的発想」 が 「客観的な科学」 と称して大手を振っているときに、そこで軽んじられ踏みつけられているのは、結局は対象の本質に迫リ、対象それ自体を全体として認識することを任務とする人間の 「理論的理性」 であり、またそのような理性に対する人間自身の信念ということになりはしないだろうか。
追記: 宗教の場合、そこで主張されている 「神」 とか 「彼岸」、「霊」 などといった 「存在」 は、唯物論の立場に立てば、なんの実体も持たない空想的存在であるということになり、またいわゆる個人の 「神秘体験」 も、肉体的精神的に異常な極限状況や過酷な修行などによって変調をきたした脳の産物であって、ただの錯覚だということになるのかもしれない。 しかし、ある個人がオームのような馬鹿げた薬物体験などではなくて、その人自身の苦悩の結果として 「神秘体験」 を経験し、その結果、その人の人格も生活も大きく変わったとすれば、それは錯覚であろうとなかろうと、すでに一つの意味を持った 「客観的事実」 である。これは、もちろん 「冒涜」 しているとか、していないとかいうこととは関係ない。 「宗教」 という現象が単なる個人的な迷妄などではなく、普遍的で共同的な意識として 「客観的」 に存在していることは誰にも否定できないだろう。その限りでは、「宗教」 という現象は決して空疎なものではなく、それなりの 「実体」 としての性格を有している。 「実体」 という言葉は、人によって、あるいは場合によって、「物質的存在」 に限定したり限定しなかったりで、誤解や食い違いを招きやすい言葉だが、ここでは単なる空疎な現象ではなく、それ自体で存在する 「物質的存在」 ではないものの、客観的な認識が可能な一種の観念的な存在であるということを意味している。 このことは、「言葉」 とか 「権力」、「権威」 とかいった社会的な現象についても言える。だからこそ、「宗教」 という現象はウェーバーやデュルケムなどといった優れた社会学者によって、以前から研究の対象とされてきたわけだ。であれば、そこには 「客観的に観察可能」 な、たんなる機能や効用には解消されない問題が隠されているのではないかということになりはしないだろうか。 もちろん、そういったことに関心を持つか持たないかは、個人の自由である。しかし、これまでの定義上の困難を乗り越えた画期的な 「宗教の定義」 などとたいそうなことを言うのであれば(宮台のこと)、それではすまないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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