アメリカ帰りのドイツ人社会学者、ルーマンに代表される「社会システム論」について、Wikipediaでは次のように説明されている。
ニクラス・ルーマンはパーソンズから引き継いだ社会システム論にオートポイエーシスの考え方を導入し、第二世代の社会システム理論を切り開いた。
・システムとは、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を
供給し、 相互に依存し合うことで形成されるループである。
・システムは自己の内と外を区分(境界維持)することで自己を維持する。
・システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。
すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。
・ひとつのシステムはそれを孤立したものとして認識すべきではない。
システムは外部環境が存在する場合に意味を持ちうる。
Wikipediaの記述には、いろいろ問題があるものもあるが、他のサイトや宮台真司氏の説明などを参照しても、この説明はおおむね妥当だと思う。
そこで、いくつか疑問を提起してみたい。
第一は、この社会システム論が、そもそも「生命システム」という実体的に存在する有機体のシステムをモデルにしていることだ。つまり、このことは、生物学とは学問の対象領域がまったく異なる社会学の方法論として、はたして適切であるのかということだ。
第二は、上とも関連するが、「生命システム」をモデルとすることによって、「社会システム論」では方法論的には機能主義を標榜しながら、結果的にかえって「社会」や「システム」なるものを具体的な人間から切り離し、それ自体として「実体化」しているのではないかということだ。
「社会」を生物=生命になぞらえて論じる発想自体は、大昔からあるもので別に珍しいものではない。一番素朴な<社会有機体説>といえば、王侯貴族などの支配者を人間の頭脳に、農民や労働者を手足にたとえるものだが、近代社会理論としてはダーウィンの生存競争論を社会理論に導入し、社会における強者による弱者の淘汰を肯定したハーバート・スペンサーなどがあげられるだろう。
「社会システム論」は、そのような古典的<社会有機体説>に比べると、生物学の「オートポイエーシス」概念を導入して、理論のダイナミズム化を図るなど、はるかに洗練されていることは間違いない。しかし、生命システムでのオートポイエーシスは、たとえば高等生物であれば、神経系や内分泌系の働きによって実際に機能しているのに対して、社会における自動的な調節機能などは、せいぜい価格の変動をつうじて機能する「市場法則」ぐらいしか存在していない(もちろん、これも人間を押しつぶしながら貫徹するわけだが)。
「社会」は「有機体」のような意味での明確な実体を持っておらず、そのような閉じたシステムでも、全体が統合されたシステムでもない。実体として見る限り、具体的な人間の集合でしかない社会には、生命体のような「自己保存本能」も生命体としての統一された意思も存在しないことも明らかだろう。したがって、このような論理は、せいぜい比喩としてしか成り立たないのではないかと思う。比喩は理解を容易にする上では役立つが、それ以上のものではない。
上であげた疑問は、そういう意味だ。
「パワーエリート」の著者で、まだ若いうちに急死したライト・ミルズは、「社会学的想像力」の中で、「社会システム論」の祖であるタルコット・パーソンズの社会学理論を「誇大理論」(Grand Theory)と呼び、難解で煩瑣な概念定義がやたらと並ぶことを「ビザンチン的奇習」と揶揄したが、この批判はいまはやりの「社会システム論」にも当てはまると思う。
「少なくとも心に確実な実例をもたぬまま、三頁以上を書きとばしてはならぬ」と、彼は断言している。
そもそも、「関数概念」であれなんであれ、物理学や生物学の方法論を社会学に導入すること自体が単なる模倣であり、「比喩」としてしか成立しないのではないかと思う。
以上はとりあえずの印象のようなものなので、「批判」とはせずに「疑問」ということにしておきたい。