数学的定義というものには、対象を規定しそれによって対象を産出するといった特殊な性格があるように思う。
たとえば、虚数は-1の平方根によって定義されるし、a+biという式で表される複素数は、この虚数と実数の和によって定義される。
もちろん、このような定義は、暇をもてあましたどこかの誰かがただの思いつきで考え出したわけではなく、なにか具体的な数学上の問題などを解決するために提出されたものだろう。そのような新たな数の定義が提出されることによって、数の概念が拡張され、それまで解けなかった問題にも答えが与えられて、新たな数学の領域が開拓されるということになるのだろう。だから、そのような定義は、数学という学問の発展のうえでは必然的なものであったと言えるだろう。
こういう「数学的定義」の特殊性は、数学が自然数や初期の幾何学のような感性的領域からしだいに離れていくにしたがって、ますます明瞭になってくるように思う。(たぶん、そのような抽象的で非感性的な思考にどこまで耐えられるかによって、その人がどこまで数学についていけるかがきまるのでしょうね。きっと)
それに対して、「社会科学的定義」 はあくまで対象自身の理論的追求の中から生み出される。しかも、現実の社会的事象は、なんらかの 「定義」 によって画然と区別されるようなものとして存在しているわけではない。社会科学においては、いかなる定義も経験的にしか与えられないし、また、そのような定義には、様々に変化し多様な様相を見せる具体的な現象を包摂するだけの柔軟性も必要なのではないかと思う。
この場合の 「定義」 はあくまで個別的な事象の理論的抽象によって与えられるものであり、言うまでもないことだが、「定義」 によって個別の事象が成立し存在するわけではない。
たとえば、戦前から続く日本の歴史をめぐる様々な理論的混乱(古代史から現代史まで)の最大の原因は、要するに 「古代奴隷制」 や 「封建制」、あるいは 「絶対主義」 や 「ブルジョア革命」 といった、基本的にはヨーロッパの歴史研究から導き出された概念を、極東アジアの島国 「日本」 にそのまま当てはめようとしたことではなかったのだろうか。
むろん、アジアの歴史であろうとヨーロッパの歴史であろうと、そこには一定の共通性や一般性は存在する。しかし、マルクスが有名な 「ザスーリッチへの手紙」 の中で 「『資本論』 の論理はそのままロシアの歴史に当てはまるものではない」 と認めたように、ある具体的な歴史的対象の研究から得られた一般概念が、まったく性格を異にする歴史的対象に適用できるかどうかは、その概念の抽象度にもよるとはいえ、極論するならば 「やってみなけりゃ分からない」 のであって、先験的に言えることではない。
社会科学における理論とはつねに現実によって規定されるのであり、その逆ではない。実際、どんな場合にも成立する 「普遍的な歴史法則」 を求めようとすれば、それは結局 「強い者は弱い者に勝つ」 といった、ほとんど意味のない同語反復の類にしかならないだろう。だから、社会科学的な理論には、どんな場合にも多かれ少なかれ 「導きの糸」 としての性格が付きまとうのだと思う。
社会科学における概念とは、基本的には具体的な個別事象の理解を促すための手段であり、そのための 「補助的装置」 というべきであろう。だから、概念を固定化してしまってはかえって役にたたなくなるのではないだろうか。
これもまた言うまでもないことだが、歴史も社会も、なんらかの 「論理」 や 「法則」 によって動いているわけではない。人間はもちろん様々な必要性に迫られて、一定の行動を取るわけで、そこに一定の 「法則性」 を見て取ることは可能だ。しかし、どんな場合にも、実際に生きているのは具体的な諸個人だけである。「歴史法則」 なるものは、そのような人間の行動とその結果を後から巨視的に見た場合に、一定の条件下では一定の結果を生むものとして見えてくるにすぎないものだろう。
社会科学とはあくまで 「現実」 を対象とする学問である。学問である以上、当然 「論理的能力」 も要求される。しかし、現実を忘れた抽象的でスコラ的な概念論議に陥らないためには、具体的な現実というものに対する 「感性」 もまた同じくらいに必要だろう。論理的明晰さを求めるあまり、錯綜した現実の複雑さを過度に単純化するようなことがあってはならないと思う。