マルクス主義の歴史でも、マルクスが使っていた 「生産関係」 や 「生産力」 をはじめとする様々な概念について、定義を明確にし理論を精緻化しようとする動きはあった。
中でも 「土台」=「下部構造」 と 「上部構造」 の関係に関する論争は熾烈なもので、言語は 「土台」 か 「上部構造」 かとか、科学や技術はどっちに入るのかといった論争が、日本でもソ連でもはてしなく続けられたものだ。科学技術にしても、言語にしても、人間の精神的活動に関わるものだから、その意味では 「上部構造」 に属する。しかし、言語が存在しなければ社会は成立しないから 「土台」 のようにも思えるし、技術は明らかに生産力の範疇に属するようにも思える。
そういうわけで、果てしない論争が続いたわけであるが、今となってはそういった煩瑣な論争に関心を持つ者もほとんどいないだろう。
いずれにしても、マルクスがいう生産力というものは、鉄が何トン、石炭が何トンみたいなただの数字で表されるものではないし、労働主体である人間そのものや、先を見通して計画を立てたり、創意工夫を重ねたりといった人間の精神的な働きを抜きにして、なにやら実体的な「生産力」そのものが裸の形で存在するわけはない。力自慢の男がただやたらめったらに手足を振り回しても、なにも生産などされないのは自明のことだろう。
ついでに言っておくと、マルクスの唯物論は単なる 「実体論」 などではない。唯物論といえば物質的存在という 「実体」 しか扱えないと思っている人がいるとすれば、そのような人はたぶん一度もマルクスをまともに読んだことがない人なのだろう。三浦つとむという人の偉さは、こういったくだらない果てしなき論争に対して、「土台」 とか 「上部構造」 とかいう言葉は 「概念」 ではなく、アナロジーに過ぎないと明確に断じたところにも現れている。
どんな学問にも、独自の対象領域がある。そして、そのような独自の対象領域には、他の領域とは違う特殊な性格がある。たとえば、言語学は言語を対象とするものだし、心理学は人間の心理を対象とするものだ。言語には言語としての特殊性があり、心理には心理としての特殊性がある。自然現象には自然現象としての特殊性があり、社会現象には社会現象としての特殊性がある。
だから、ある学問についての方法論や概念は、それ自体、その学問の対象領域についての探求のなかから作られなければならないというのも、三浦つとむがよく言っていたことだ。
対象の特殊性を考慮せずに抽象的な一般的方法論をそのまま押し付けることや、どっか別の学問で上手くいき成果を挙げたらしい方法を、うらやましさのあまり、対象の異なる領域へこっそり密輸入することは、三浦という人がもっとも嫌ったことである。
社会学に関する厳密な方法論議や概念定義は、ウェーバーあたりから始まったものだろうが、あらかじめ概念を厳密に定義してから社会という対象について論じようというのは逆立ちしている。概念は定義によって得られるのではなく、対象とする多様な現象の複雑さを抽象することで得られるのだ。また、そのようにして得た概念でなければ、単に多様であるだけでなく、つねに変化を続ける現実を説明し記述することなどとうていできはしない。
「反デューリング論」 の中でエンゲルスは、やたらと「体系」を作りたがるドイツの学者先生たちのことを、「しばらく前からドイツでは、宇宙生成論、自然哲学一般、政治学、経済学等々の体系が、きのこのように一夜のうちに何ダースも生え出す有様である。今ではもう、どんなけちな哲学博士でも、それどころか大学生でさえ、完全な一『体系』にならないようなものには、かかわりあおうともしない」 と揶揄した。
「デューリング氏の 『体系』 にもう一つ別の体系を対置する」 ことが目的ではないと、エンゲルス自身この中で断っていたにも関わらず、この書物が 「マルクス主義の体系」 を記述したものとして読まれてきたのは不幸なことだが、いずれにしても 「体系」 とか 「一般理論」 とか称するものについては、とりあえず眉につばをつけておくほうが、いつの時代でも無難だろうと思う。