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カテゴリ:思想・理論
テオドール・アドルノといえば、わゆる 「フランクフルト学派」 の創始者であり、ホルクハイマーとの共著 『啓蒙の弁証法』 でも有名である(つい最近岩波文庫で刊行された)。その彼の論文集 『プリズメン』(ちくま学芸文庫)に収められた 「知識社会学の基礎」 という論文に次のような一節がある。
カール・マンハイム(1893~1947)とは、『イデオロギーとユートピア』(1929)などの著書で知られ、「知識社会学」 を提唱したハンガリー出身の社会学者である。第一次大戦後にロシア革命の余波を受けるようにして革命が起きたハンガリー時代には、のちに 「歴史と階級意識」 を書いたジェルジ・ルカーチの年少の友人でもあり、その後、故国での革命崩壊と独裁政権成立によってドイツに亡命し、さらに今度はナチス政権の成立によりイギリスに亡命したという経歴を持つ人である。 ここで批判されている 「知識社会学」 とは異なるが、いわゆる 「社会システム」 論に対しても、「社会の概念そのものが「統合」という、著しく(人間の)信用を下落させる用語を魔法で呼び出す語り口によって水平化される」 とか 「社会的全体への訴えは、・・・・全体の中で諸矛盾の中間的な調整の意味での社会的過程を神格化する機能を持つ」 といった、アドルノの言葉はそのまま当てはまるように思われる。 以前にも指摘したが、社会は、それ自体が自動的な調整機能を備えた全体的な 「システム」 などではない。「関数」 と呼ぼうが、「システム」 と呼ぼうが、入力と出力だけを取り上げるという 「機能主義」 では、そのような 「システム」 そのものが不問にふされる結果、そのような 「関数」 あるいは 「システム」 という存在が、なんだかよくわからないが手を触れることのできない 「不変の存在」 として実体化されてはいないだろうか。 だから、「実体論」 を克服すると称する 「機能論」 は、実は 「実体論」 と表裏の関係にあるのであり、「実体主義」 と 「機能主義」 の対立などというものは、単に同じレベルでの争いに過ぎないのではあるまいか。 三浦つとむによる 「機能主義」 批判の意味はそういうことであって、「実体」 を無視するのは観念論だというような低レベルのものではないし、人間の社会が文明とともに数千年もの間、何はともあれ存続してきたのは、なにも社会がなにやら立派な機能を備えた 「システム」=「装置」 であるからでもない。 それは、個々の人間の具体的な生活過程の結果として社会が成立し、抑圧や収奪、争い、そしてそれに対する抵抗も伴いながら、生と死の交代の中で存続してきたというだけのことである。むろん、人間が現実的・観念的に結合して成立する社会というものは、個々の人間という実体には解消されない。しかし、全体は個々の総和を上回るという程度の話であれば、酸素1分子と水素2分子が結合してできた水という単なる無機物質にですら言えることだ。 もしも、「社会システム」 論者がいうような理論が完全に当てはまる社会が存在するとすれば、それは現実のどの社会でもなく、むしろオーウェルが 『1984』 で描き、ロシアの作家ザミャーチンが 『われら』 で描いたような完璧な管理社会こそそうだということになりはしないだろうか。 このような 「社会システム論」 には、すでに進化論からすらとうの昔に追放されている、非人格的な 「目的論」 という曖昧な神学的思考が見え隠れするようにも思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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