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カテゴリ:文学その他
柄谷行人が、小林秀雄について次のようなことを書いている。
平野謙がどこかで、小林秀雄が「文學界」を始めたとき人民戦線を考えていたのでないかと述べていた。人民戦線と呼ぶべきかどうかは別として、小林秀雄が左翼崩壊後に左翼擁護の立場にまわったことは確実である。そのことは彼が「文學界」同人に中野重治や林達夫を強く誘ったことからも、また彼の「私小説論」や「芸術と実生活」といった評論からも明らかである。また、「戸坂潤氏へ」というエッセイには、そのことが端的に書かれている。彼は戸坂潤らが作った「唯物論研究会」に入っていたのである。小林を「伝統主義者、復古主義者、日本主義者」と断罪する戸坂の批評に対して、彼はこう述べる。 《屁理屈は抜きにして、それより僕は唯物論研究会のメンバーであるから、さつさと除名したがよかろう》。 僕は自ら進んで唯物論研究会に入会したのではない、再三勧誘を受けて加入を承諾したのである。その時僕の名前でも利用の価値があるならどういふ風にでも利用して欲しいと岡邦雄氏に明言した。それを、小林秀雄が現代文化を毒する危険人物である位の事はとうの昔から承知してゐたなぞといふような事をいはれては馬鹿々々しくつて腹も立たぬ。(「報知新聞」1937年1月28日・『小林秀雄全集』第4巻所収) 戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、小林が彼に好意的だったからである。孤立した者が最も理解してくれる者に八つ当たりするという感じがある。小林は「腹も立たぬ」と言うが、こうしたことが続くたびに熱意を失ったことは疑いがない。以後、小林が「無常といふ事」のような地点に向かうのは、たんに情勢のせいではない。私は、戸坂潤は優秀な哲学者だったが、同時に愚かな実践家だったと思わざるをえない。ところが、こうした事柄はほとんど忘れられている。左翼は小林を否定するし、保守派は小林がそのようにふるまったことを見たくもないからである。 【平衡感覚ー福田恒存を悼んで】(「新潮」1995年2月号) 上の文章の中で小林秀雄が反駁している戸坂の批判とは、その前年に同じ報知新聞に掲載された『本年度思想界の動向について』という文章のことである。その中で、戸坂は次のようなことを言っている。 小林秀雄氏が今日のような思考の公式に陥って行くらしいことは、決して意外なことではなかった。私は数年前からこれを指摘していたし、世間でもこれは「明快卒直」な定評に近かったと見てもよい。しかしあまりにも見事にこの公式の実践者となったことは、少なくとも私を驚かした。彼はもはや、日本の民衆の生活にとって矛盾した二元的な対立が日々の現実であるという一個の事実を考えて見ようともしない。それだけではなく、困ることには、この二元性に対する無知と無視とに身をおくことに、何等かの程度のヴァニティーをさえ感じているのではないかと思われる。なぜなら、それでこそ初めて民衆というものがわかるのだ、といっているからである。 (戸坂潤全集第五巻『世界の一環としての日本』所収) その一方で戸坂は、「小林秀雄(以下面倒だから「氏」を省く)は少なくとも私にとっては最も魅力のある文芸批評家である。」 とか 「一種の文学青年であるかも知れない私が、小林の批評に魅力を感じるのも、或いは矢張りこのパラドックスにあるかも知れない」(思想としての文学) などとも言っていて、小林秀雄を必ずしも完全に否定しているわけでもない。戸坂の小林評価はかなり微妙なのである。 小林秀雄の戸坂への反駁文は、「先日本紙に載った戸坂潤氏の『本年度思想界の動向』について僕の文章が非常に誤って読まれたことを残念に思う」という文で始まっている。ところが、その少しあとでは、「だが実際のところは戸坂氏は僕の文章を誤読なぞしなかったのであろう。話の辻褄を合わせるために僕の文章を故意に曲解することが必要だったのだと思う」とも書いている。 この部分からは、確かに柄谷が言うような戸坂に対する小林の好意も感じられないわけではない。つまり、表立ってはそんなことを言っているけど、君の本当の気持ちは僕にはちゃんと分かっているんだよ、みたいな意味でだ。だが、それだけに戸坂に批判を受けたことに、小林がかなりの戸惑いと不満を感じたことも確かなようである。同じ文章の下のような部分からは、そのような憤懣がはっきりと感じられる。 「文学界」の改組以来、文学者達は各自の立場を犠牲にしても、共通な意欲を発見しあわねばならないという考えを僕は捨てない。(中略) 社会の一般の解釈を文学者の立場からするなどといううぬぼれを捨てよと戸坂氏は言うが、そんなうぬぼれが持てるほど今の社会はやさしいかどうか考えてみればいいではないか。 こういう奇妙な文化の歪みについて文学者等は文学者らしい鋭敏さをもって感じているものをどしどし言うべきだと思う。政治的知識の不足なぞを恥じている必要はない。(中略) こういう心持は文壇主義を捨てて文学主義を選んだ文学者達は皆持っていると思う。それを戸坂氏のように、科学的理論的分析を忘れた文学主義者の方言の跋扈は警戒しなければならぬなどと余計な水をさしていったいなにが面白いんだ。 ここには、小林なりの時代に対する危機感が表れており、それだけに、いささか味噌も糞も一緒にするかのごとき戸坂の批判に対する憤懣も大きかったのだろうと思われる。僕の気持ち、なんで分かってくれないのよ、というような恨み節も聞き取れるだろう。だが、戸坂の小林批判は、戸坂自身言っているようにこのときが初めてではないし、そのことは小林のほうも十分承知していたはずである。それでいて、あえてこのような反駁文を書いたということは、それだけ小林の落胆が大きかったということを表しているように思える。 いわゆる反ファシズム統一戦線=人民戦線という戦術がコミンテルン大会で承認されたのは1935年のことであり、それを受けて翌年には岡野進の名前で野坂参三が山本懸蔵と連名で書いた「日本の共産主義者への手紙」が出されている。もちろん、こういった文書は非合法文書だったのであり、当時の知識人にどれだけの影響を与えたのかはよく分からない。しかし、上のような小林の言葉は、「小林秀雄が『文學界』を始めたとき人民戦線を考えていたのでないか」という、柄谷によれば平野謙が言ったという主張を裏付けていると言ってもいいだろう。 だが、この同じ年の末、つまり盧溝橋事件による日中戦争の勃発後に発表された『戦争について』という文章では、彼は、「僕には戦争に対する文学者の覚悟といふ特別な覚悟を考へる事が出来ない。銃をとらねばならぬ時が来たら喜んで国の為に死ぬであろう(中略) 戦ひは勝たねばならぬ。そして戦ひは勝たねばならぬといふ様な理論が、文学理論の何処を捜しても見付からぬ事に気が付いたら、さっさと文学なぞ止めて了へばよいのである。」 と書くのである。 文学者たる限り文学者は徹底した平和論者である他はない。従って戦争という形で政治の理論が誇示されたときに矛盾を感じるのは当たり前なことだ。僕はこの矛盾を頭の中で片付けようとは思わない。誰が人生を矛盾なしに生きようなどというおめでたい希望を持つものか。同胞のために死なねばならぬときが来たら潔く死ぬだろう。僕はただの人間だ。聖者でもなければ予言者でもない。 『戦争について』というこの文章は、このようないささか悲鳴めいた言葉で終わっている。 あらあら、引用ばっかりだ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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