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カテゴリ:福岡
奇怪な傑作 「ドグラマグラ」 の作者 夢野久作は本名を杉山泰道といい、戦前右翼の大立者であり政界の黒幕ともいわれた杉山茂丸の息子である。
九州は福岡といえば右翼発祥の地の一つであり、かの有名な玄洋社を設立した頭山満や、「日韓合邦」(韓国併合)を推進した黒龍会の内田良平など、錚々たるメンバーがそろっている。条約改正に反対して大隈重信に爆弾を投げ、その場で自殺した来島恒喜も玄洋社の人間である。 杉山茂丸もそのような人物の一人であるが、「ショートショートの神様」 と言われた星新一の父親の星一が製薬事業に乗り出したときに資金援助をしたりもしている。 玄洋社はもともと民権派として出発したのだが、しだいに朝鮮や中国への進出を目指した国権派へと性格を変えていく。そこにはロシアの極東進出に対する危機感であるとか、幕末以来の根強い勤皇思想などの問題があるのだろうと思う。 日本がいまだ対外進出の余力を持っていなかった時期には、彼らのいわゆるアジア主義は、中国の孫文やフィリピンのアギナルドを支援したりといった、一種の反帝国主義的な連帯の試みであったと言えなくもない。 しかし、日本の急速な近代化による対外膨張の開始と、彼ら自身の政府や軍との関係強化の中で、当初のアジア主義は、しだいに単なる日本の東アジア支配という野望の別名でしかなくなっていく。戦争中に声高に宣伝された 「大東亜共栄圏」 とは、まさにその最終形態ともいうべきものだろう。そういうアジア主義の変質を免れていたのは、53歳で死んだ宮崎滔天ぐらいではないだろうか。 頭山満が、大逆事件で刑死した幸徳秋水のお師匠さんである中江兆民と親しかったことは有名だが、5.15事件で暗殺された政党政治家の犬養毅とも親交のあった人物である。 ところで、なんで、こんなことを書き出しかというと、じつは先日近くのスーパーで 「新宿中村屋」 のレトルトカレーを買って食べたからなのである。 中村屋のカレーというのは、その創始者の相馬夫妻がかくまっていたインド独立運動の活動家であったラス・ビハリ・ボースという人物が相馬の娘と結婚したことから始まっていて、このボースの日本亡命のさいにも犬養と頭山は協力している。 福岡という土地の政治風土には独特のものがあるようで、左翼のほうに眼を転じれば、関東大震災で大杉栄とともに殺された伊藤野枝もいる。松下竜一が伝記を書いた、大杉と伊藤の娘のルイさんという方も、両親の死後、福岡にある伊藤の実家で成長している。あと、戦後で言えば 『神聖喜劇』 を書いた大西巨人もそうである。(なんだか、今日は郷土自慢ふう) さて、冒頭に述べた夢野久作の 『近世快人伝』 (青空文庫から)という作品に次のような一節がある。 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」 と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしゃる……俺達はお蔭で助かる……という事実がハッキリとわかると、さすがに眠る者が一人もなくなった。 (中略) あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、はらわたがグルグルグルとデングリ返って来る。何もかもいらん 『行くぞオ』 という気持ちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」 と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタとこぼれ落ちるのを筆者は見た。 時代は西南戦争の直前で、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、熊本の神風連、江藤新平の佐賀の乱など、いわゆる不平士族の反乱が九州で相継いだころのことである。反乱に直接加わってはいなかった門下の少年らが投獄され拷問を受けていることを知った首謀者の武部小四郎は、逃亡先から処刑覚悟で戻って自首してきた。その武部が処刑される日のことである。 この一節をはじめて読んだのはもうずいぶん前のことだが、「行くぞオォ――オオオ――」 という言葉は一度読むと、まるで自分の耳でじかに聞いたかのように耳を離れない言葉である。 そうそう、中村屋のレトルトカレー、家の者にはあまり評判よくなかったです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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