たとえば長年のつれあい(ふるっ)から、ある日突然「本当のことを言おうか」などと言われれば、たいていの人は思わずぎょぎょっとするに違いない。
いうまでもなく、それはこの言葉には、私がいままで言ってきたことは実は全部嘘なんだよ、という言外の意味があるからである。「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろう」(吉本隆明『廃人の歌』) という言葉は確かに 「妄想」 じみているが、「本当のこと」 というものには少なくとも1つの世界をひっくり返すだけの力はあるだろう。
この 「本当のことを言おうか」 という言葉は、谷川俊太郎の 『鳥羽』 という詩の中の一行だが、ずっと、大江健三郎の 『万延元年のフットボール』 の巻頭のエピグラムとして使われているものとばかり思っていた。
昨日、ひょんなことで、書棚の奥からぼろぼろの講談社文庫版のこの本を発掘して扉を開いてみたのだが、この文句がない。
そんなはずはないのである。なにしろ、この文句を初めて知ったのは谷川の詩ではなく、大江の引用からだったはずで、それが高校時代に読んだ 『万延元年のフットボール』 であったことも間違いないのである。
で、ぱらぱらとページをめくっていたら、第8章の題にこの詩句が使われていたのだった。
それからかれは(中略)「本当のことを言おうか」 といった。
「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、おれはあの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、一人の人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、いずれかを選ぶしかない、絶対的に本当のことを考えてみていた。その本当のことは、いったん口に出してしまうと、懐に取り返し不能の信管を作動させた爆裂弾を抱えたことになるような、そうした本当のことなんだよ。蜜はそういう本当のことを他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね」
これは、この小説の実質的な主人公と言ってよい人物である、60年安保闘争に参加したあと 「悔悛した学生運動家」 としてアメリカに渡り帰国してきた鷹四が、ふるさとの四国の谷間にともに帰ってきた兄の蜜に話しかけた言葉である。
四国の森の中の谷間で青年達を組織して暴動を起こし、最後には不可解な死を遂げる鷹四がここで触れていた 「本当のこと」 がなにかは、この物語の核心に触れることにもなるので秘密にしておこう (読んだことのある人は先刻承知でしょうけれど)。
とにかく、30年以上前に読んだきりで、その後読み返したこともほとんどなかったから、記憶違いが生じていても当然ではあるのだが、あらためて人間の記憶なんてあまり当てにならないものだと感じさせられた。
話は変わるが、池田信夫が 「大江健三郎という病」 と書いているのを見て思わず笑ってしまった。作家という種族が<病>を抱えているのは当たり前なのである。詩人や作家に存在価値があるとすれば、彼らが抱えている<病>の深さこそそうであるというべきだろう。<健康>な作家などというものは、ほとんど想像もできない。
三島由紀夫はもともと虚弱だった体を剣道やボディビルで鍛え上げ、「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治されるはずだった」 などと言った人だが、この彼の言葉も、裏を返せば、おれが抱えている<病>はあんたなんかよりもっと根深いものなんだよと言っているように聞こえる。かの哲人プラトンが理想国家からの詩人追放を叫んだのも、決して根拠がないわけではないのである。
本当のことを言おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない
谷川俊太郎 『鳥羽』 より