M17星雲の光と影さんのところで知ったのだが、「『自分の木』の下で」という若い人向けに書かれた大江のエッセイ集の中に次のような一節がある。
私は、もう学校には行かないつもりでした。森のなかでひとり、植物図鑑から樹木の名前と性質を勉強すれば、大人になっても生活できるのです。一方、学校に行っても、私が心から面白いと思う樹木のことに興味を持って、話し相手になってくれる先生も、生徒仲間もいないことはわかっていました。どうしてその学校に行って、大人になっての生活とは関係のなさそうなことを勉強しなければならないのでしょう。
(中略)
私は自分にもおかしく感じるほど、ゆっくりした小さな声を出してたずねました。
――お母さん、僕は死ぬのだろうか?
――私は、あなたが死なないと思います。死なないようにねがっています。
――お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない、といわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。
母はしばらく黙っていました。それからこういったのです。
――もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
――けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
――いいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。
作家という者はウソをつくことが商売なのだから、ここで彼が言っていることがどこまで本当なのかは分からない。たしか、旧約聖書のどこかに似たような話があったような気もするし(兄のカインに殺されたアベルの代わりとして、神様がアダムとイブにセツを授ける話)
とはいえ、これが言葉どおりの事実であろうとなかろうと、大江健三郎にとっての 「本当のこと」 というのは、たぶんこういう風景なのではないかと思う。それは、「アンガージュマン」 などというサルトル譲りの言葉や、個人主義を前提とした近代ヒューマニズム、その他教養人として彼が身に付けた様々な知的意匠などよりも、はるかに深いところで彼を規定しているという意味でだ。(もしこの話が本当だったら、このお母さんというのは凄い人です)
ここに映し出されているのは、「自立した主体的個人」 などという近代の理念とはおよそ懸け離れた風景である。だが、この母親の言葉には病んだ子供の気持ちを回復させる不思議な力がたしかにある。それはたぶん、このような言葉と振る舞いには、周囲に対して<孤絶感>を抱いている少年の閉じた心を開かせ落ち着かせる、懐かしい原初的な共同性のようなものがあるからだろう。
それに比べれば、進歩的知識人としての彼の 「社会的発言」 など、私にはそれほど意味のあるものとは思えない。文学者としての彼の資質は、本来そういうところにはないのだ。大江は、あるときから<森>や<樹木>、<鯨>といった神話的なシンボルを多用し、どこにも存在しえない<非・近代>の世界を描くようになってきたが、その根底にあったのは、たぶんこういうおよそモダナイズされた都会人らしからぬ心性なのだろう。
大江という人は、もともとこういう近代社会の中での根源的な 「生きにくさ」 をずっと抱えてきた人なのだろう。『叫び声』 のように実在の事件をモデルにした作品であっても、実際にそこに表白されているのは、<世界>の中での彼自身の 「不安」 であり 「生きにくさ」 という<違和>なのだと思う(むろん、これは三島の 『金閣寺』 についても同じでしょう。作家というものは、実在の事件を題材にしておのれの妄想を語るものなのです)。
大江という人は、そもそも正面切った直接的な 「社会的発言」 などにはまったく向いていない人なのだ。彼の声は、冷静に事実だけを伝えるジャーナリストにはまったく適していない。それは、むしろ神話的な 「預言者」 の声に似ている。なにしろ 「客観的な事実」 について語っているように見えるときでも、つねにそこに過剰な意味を見いだしてしまう、そういう人なのだから。
彼がことさら政治性や社会性の強い作家であるかのように誤解されてきたことには、むろん戦後文学の継承者としてスタートした彼の気負いや自負のせいもあっただろう。また、60年代という時代のせいもあったと思う。初期の彼が、しばしばそのような題材や主題を意識的に選んでいたことも確かだ。だが、その題材だけを取り上げてその作家について論じるのは、悪しき 「主題主義」 の裏返しでしかないだろう。
バイロンではないけれど、若くして登場し一夜にして脚光を浴びたために世代と時代のチャンピオンのような位置に立たされ、結果としてその発言が過度の意味と影響力を持つようになってしまったことは、この人の文学にとってはあまりいいことではなかったように思う。それは、作家としての大江ではなく、知識人として、あるいは言論人としての大江のほうが良くも悪くも注目を集めるという、作家としては不幸な現象がしばしば見受けられるという意味でだ。
―― クロツグミですよ、と…… あるいは、
―― ビンズイ、ですよ、ルリビタキ、ですよ、センダイムシクイ、ですよ、と…… 『洪水はわが魂に及び』から
大江健三郎という人を単なる進歩的なヒューマニストだと思っている人は、いちど彼のこの作品を読んでみればよい。そこにあるのは、微温的なヒューマニズムなどとはおよそ懸け離れた、混沌とした不安と恐怖、そして暴力に満ちた世界なのだから。
追記: 村上春樹の 『海辺のカフカ』 の舞台に 「四国の森」 が出てきたのには、思わずのけぞってしまいました。なにしろ 「四国の森」 というのは大江の専売特許ですからね。最初の印象は、ちょっと大江を意識しすぎじゃないの、それってひょっとして挑戦状なの、などという感じだったのですが、よく考えると、むしろ逆に、あれは大江に対する一種のオマージュなのだろうかという気もしてきます。
「恐ろしいほど暴力にみちた世界」 という言葉が 「犬の世界」(新潮文庫 『空の怪物アグイー』 所収)という初期の大江の短編に出てきます。大江という人はまさにそのような世界を一貫して描いてきた人ですが、村上春樹の 『ねじまき鳥』 にも確か同じような表現がありますね。このへんの関係は、ちょっと面白い感じがします。なにか、ぐるぐるっと回って同じところに出てきたような。