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カテゴリ:文学その他
先日、仕事に飽きてふらふらと外を歩いていたら、目の前になぜかゲオがあった。なにしろ、仕事がら自宅で一日中椅子に座ったまま、二台並べたパソコンの画面とにらめっこをしていることが多いもので、どうしても運動不足になりがちなのである。どこかの大臣の言葉ではないが、このままでは人権メタボならぬただのメタボになってしまうのである。ちなみに、水はごく普通の水道水をそのままごくごく飲んでいるのだが。
実際、学生の頃と比べると15キロも太ってしまって、身長の下二桁の数字と体重がほぼ一緒になってしまい、眼の疲れや肩こりのほかに腰痛まで出てくるようになったのだ。このままほっておけば、脚力が低下し駅の階段も上れなくなってしまうのは間違いないのである。 そういうわけで、納品の締め切りに追われず時間に余裕があって天気のいい日などは、なるたけ外を1-2時間ほど歩くことにしているのだが、なぜか気が付くといつも目の前にブックオフとかゲオとか新刊書店とかの看板が立っているのである。東西南北、どちらの方向に足を向けて歩き出しても、いつもそうなのである。いや、ほんと。 で、しょうがない、これも人知を超えた神様の深い思し召しなのであり、小林秀雄言うところの逃れられない宿命なのだと諦めて店内へ入り、どんなに小さな本も見逃すまいと眼を皿のようにして上から下へ、右から左へと棚をチェックしていたら、ジャン・コクトー詩画集『ぼくの天使』というごくごく薄い本が目にとまったのである。 訳者は高橋洋一郎という人で、出版は講談社(1996年)、定価は1600円。それが、引っくり返して裏表紙を見ると、300円という値札がぺたんと貼り付けてあるのである。な、な、なんと300円である。かの名作、ではない、そのへんのうどん屋の「一杯のかけそば」よりも安いではないか。 ジャン・コクトーと言えば、もちろん東郷青児訳の 『恐るべき子供たち』、すなわちアンファン・テリブル、それに渋沢龍彦訳の 『大股びらき』 である。その詩画集が煙草一箱と同じたったの300円とはなんたることか。ここの店員はなんたる無知な輩であるか、天才的芸術家を馬鹿にするにもほどがあると、この世の不条理に一瞬怒りのようなものが湧き上がったのであるが、そこはもちろん他のお客に迷惑をかけてはならぬから、奇声を上げたり暴れたりなどはせず、おもむろになにごともないかのような平静さを装って、レジへ持って行ったのである。 もちろん、レジの若い無愛想な店員にその本の価値を講釈して無知迷妄をたしなめるとか、芸術への不当な扱いを弾劾するなどという野暮なことはせず、にこやかな笑顔で本を差し出し、500円硬貨を出して200円のおつりを受け取り、広い店内に響き渡る、客の顔を見ようともせずに作業を続ける無礼な店員どもの 「ありがとうございました」 の合唱を背中で聞き、不審に思われぬよう急ぎ足にならぬよう、ましてや、お客様、値段が違っていましたなどと声をかけられぬように気をつけながらそそくさと店を出たのである。 しかし、散歩のたびに本を二冊三冊と抱えて帰るものだから、わが家の同居人はいつも不機嫌なのである。ドアを開けて部屋に入るたびに、今度はいったいなにを買ってきたの、まったくこのままじゃ床が抜けてしまうよという眼でじろりと睨まれてしまうのである。だから、最近は服の下などに隠して目に付かぬようにこっそりと持ち帰るのであるが、暖かくなってくるとそうもいかないし、これから先いったいどうしたものかと困りはてているところなのである。 美しい天使がやってきて 収穫期のぼくを手助けし 引き換えに葡萄酒の半分を飲んだけれど アンジュー街の葡萄酒は頬を燃えさせ 二十の半分の番地が ぼくの穀倉であることを示す 二十歳で天使は出発し アンジューなまりを嘆く 首都の草の上で 天恵を授かった老人は 天の鳥たちに餌をやるという 不吉な習慣があった 彼は、そのため、ついには彫像と化した しかも、あまりにもひどい身なりの彫像だったので 鳥たちと奥様方は、つつましやかに彼から遠ざかる 詩「レイモン・ラディゲ」より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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