G★RDIASというところでサルトルが話題になっていたので、彼の 『実存主義とは何か(原題:実存主義とはヒューマニズムである)』 をちらちらと読み返してみた。
その中で、彼は 「無神論的実存主義」 という自分の思想について、次のように要約している。
たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、なんらかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が少なくとも一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実である、…… 実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。
それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿を現し、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何者でもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間は自らが作ったところのものになるのである。このように人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。 (P.17)
ここは、まあ分からないことはない。「実存」 と 「本質」 の関係を説明するために、彼はペーパーナイフを例に出しているが、要するに人間が意図的に作り出したハサミだとかペンだとかの産物の場合は、「紙を切るため」 とか 「文字を書くため」 とかいった機能が、その存在より先に設定されており、その機能という 「本質」 にしたがって、現実のハサミだとかペンの存在という 「実存」 が作り出される。したがって、その場合は 「本質」 が 「実存」 より先行するというわけだ。
しかし、無神論の立場に立つ限り、人間は神の意志によって、なんらかの意図や目的を帯びて生み出されてきたわけではない。サルトルが言う 「人間の場合は実存が本質に先行する」 というのはそういう意味だろう。
もっとも、同じようなことは人間に限らず、人間を含めた自然全体について言えるはずである。むろん、ウマやウシがどう考えているかは、彼らに聞いて見なければ分からないことであるから、哲学的な議論から排除することにも一理はあるだろうが。
ただ、そこから展開される次のような主張に対しては、非常に違和感を感じる。
われわれが、人間は自らを選択するというとき、われわれが意味するのは、各人がそれぞれ自分自身を選択するということであるが、しかしまた、各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択するということをも意味している。……
このように、われわれの責任は、われわれが想像しうるよりもはるかに大きい。われわれの責任は全人類をアンガジェするからである。…… もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりにもとづくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向へアンガジェするのである。 (P.21)
ここでサルトルが言っていることは、単なる倫理であり徳目に過ぎないように思う。この論理は、たとえばなんらかの事情で子供を作らないことを選択した夫婦に対して、みんなが君らと同じことを選択したらこの国の将来はどうなるのだっ、というように高飛車に難詰する論理と、どう見ても同じである。ここでのサルトルは、単なる道学者にしか過ぎないように見える。
サルトルは、ここでは個の問題と共同の問題をあまりに安易に直結させているように思う。人間の共同性というものが孕む固有の問題が、ここではすっぽりと抜け落ちていて、すべてが個人としての人間の主体性に還元されてしまっているように見える。
その結果、「修身済家治国平天下」 というように、個の問題から共同の問題までを同一平面上で同心円状に並べる東洋的な儒教道徳と大差ないようなことになってしまっているのではないだろうか。そのことは、戦後の彼がスターリニズムの同伴者からマオイズムの同伴者へというふうに、悪しき党派政治と最後まで決別できなかったこととたぶん無縁ではないだろう。
ナチズムとの戦いを経験したサルトルが、戦後、政治や社会への積極的参加という姿勢を見せるようになったことはじゅうぶん理解できるし、サルトルを死んだ犬扱いする一部の風潮もどうかと思う。その点では、最近のサルトルやボーヴォワールへの再評価の動きは歓迎したい。しかし、こういう論理はサルトルのいちばん駄目な部分のように思える (たいして知りもしないのに、偉そうなことを言ってしまった)。