|
カテゴリ:文学その他
「きょう、ママンが死んだ」 などと言うと、いい歳をして甘ったれたことを言うんじゃないといわれそうだが、言うまでもなくこれはカミュの 『異邦人』 の冒頭の文である。 ところで、カミュとサルトルの間では、1951年にカミュが出版した 『反抗的人間』 という評論がきっかけで論争が起きている。この論争は、ジャンソンというサルトルの友人によるカミュへの批判論文と一緒に、新潮文庫の 『革命か反抗か』 という一冊にまとめられているが、サルトルについてちょこちょこ触れたついでに、このぺらぺらの本を30数年ぶりに読み返してみた。といっても、30数年前はまだ高校生だったのだから、たぶん当時はなんにも理解できなかったに違いない。実際、内容についてもほとんど覚えていないのだから、実質的には初めて読むようなものである。 1951年といえばずいぶんと昔の話である。なんといっても生まれる前のことであるし、この論争が当時この国でどのように受け止められたのかはよく分からない。しかし、この論争の主題は、たとえば笠井潔の 『テロルの現象学』 などに明瞭に引き継がれている。いや、というよりも、新左翼党派の一つであったプロ学同のかつての指導者、黒木龍思こと笠井潔がこの本を書いたきっかけもそうだったように、カミュが提起した主題は、この国では70年代の様々な事件を経て、ようやく本当に理解され、注目を集めるようになったというべきなのかもしれない。 この論争の終わりによってカミュとサルトルは絶交にいたるわけだが、サルトルが「『異邦人』解説」(シチュアシオンI )の中で、「『われわれが間近にここに思い致すとき、何者もわれわれを慰めえぬほどに惨めな、弱くして死すべき人間条件の本質的不幸』 を執拗に説くのは、パスカルではないか。『世界は(完全に)合理的でもなければ、また完全に非合理的でもない』 というカミュ氏の文句を、パスカルなら留保なく支持しないだろうか」 などと書いているのを読むと、彼は作家としてのカミュの資質が伝統的なモラリストのものであることも、自分との思想的な違いについても最初から十分理解し見抜いたうえで評価していたようだ。 その意味では、サルトル主宰の雑誌 「レ・タン・モデルヌ」(現代)に掲載されたサルトルの友人であるジャンソンの批判記事に腹を立てて、筆者であるジャンソンではなく編集長のサルトルに直接宛てて反論文を書いたことは、カミュにとってはやぶへびのようなことだったのかもしれない。 私たちは仲違いしていた。が、仲違いなどなんでもありはしない。それはまさしく ―― たとえ二度と会うことがなくても ―― 私たちに与えられた狭い世界で一緒に、そして互いに忘れることなく生きていくという、別の生き方にほかならない。それは私が彼のことを考えるのを妨げはしなかった、本のページや新聞の上に注がれているであろう彼の視線をまざまざと感じ取り、「彼はどう言うだろうか? いまこの際、彼はどう言うだろうか?」、とひそかにつぶやくのを妨げたりはしなかった。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[文学その他] カテゴリの最新記事
|