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カテゴリ:文学その他
高橋源一郎に 『ジョンレノン対火星人』 という小説(?)がある。これは、もともとデビュー作の『さようなら、ギャングたち』 より先に書かれたそうで、実質的な意味で彼の処女作ということになるのだろう。
処女作にはその作家の全てがあらわれている、という言葉があるが、この言葉はこの作品にもあてはまる。今、手元にある講談社文芸文庫版のこの小説の裏表紙には、「闘争、拘置所体験、その後の失語した肉体労働の十年が沸騰点に達し、本書は生れた」 と記されている。もともとは 「すばらしい日本の戦争」 と題されていたというこの小説を手短に解説するとすれば、つまりそういうことだ。 この小説、もとは新潮文庫で出ていたのを所持していたのだが、わが家の二世が独立した際に持って行ってしまい、長い間不在の状態が続いていた。で、しばらく前に、BOOK OFF で講談社版を見つけて購入したのであるが、ずっと再読せずにそのまま放っておいた。最近は幸か不幸か仕事の依頼が増えてきて、なかなか読書の時間がとれず、買ったまま放置している本がどんどんたまる一方なのである。それはさておき、 先日、この講談社文芸文庫版の解説を、内田樹さんが書いているということに、ひょんなことで気が付いた。手元に置いていながらずっと気付かなかったとは、随分うろんな話であるが、事実だから仕方がない。だいたい、文庫などを買うときは、たいてい後ろの解説からまず目を通すことにしていて、この本についてもその記憶はあるのだが、内田さんという人の存在を知ったのが最近のことなのだから、きっとそのときは見過ごしてしまったのだと思う。 内田さんと高橋は学年でいうと同じである。つまり、同じ時代の空気を吸い、同じ現場に立ち会い、同じ経験をしていたということだ。ここでの内田さんは、珍しく真面目な顔で真面目なことを語っている(失礼)。 1970年、私たちは二十歳だった。そして、当時の仲間たちの多くがそうであったように私たちは二人とも(別々の場所においてではあったけれど)「過激派学生」だった。…… 前掲書解説 「過激派的外傷あるいは義人とその受難」より だが、そのような選択は多くの場合、たまたまどちらかに自分の高校の顔見知りの先輩がいたとか、進学した大学がたまたま○○派の拠点校であったとか、あるいはたまたまどちらかの党派のほうで、人間的な魅力を持った人にめぐり合ったなどという、単なる偶然でなされたものだろう。 ○○派と××派の理論や行動のどちらに共感を覚えるか、といった程度のことはあったとしても、両派の主張を納得いくまで平等に聞いたうえで、こっちにきーめた、なんて面倒なことは、通常人はしないものである。 浅間山荘で逮捕された連合赤軍メンバーの中には、当時高校生と中学生の二人の兄弟がいたが、それはたまたま彼らの兄がそのもともとのグループに参加していたからに過ぎない (その一番上の兄は、結局二人の弟の目の前で殺されたわけだが)。 地下鉄サリン事件の元被告らにしても、同じことが言える。たまたま麻原という男を知り、あるいはオウムという教団と接触したことで、最終的にあのような結果になったわけだが、そのような偶然による最初のきっかけさえなければ、おそらく彼らの多くが、犯罪などということには一生手を染めることもなく、普通の人間として生きていたことだろう。 社会の中である立場を選択するということは、必然的に一つの関係の中に身を置くということだ。そのような関係は、客観的なものとして主体としての自分の外に広がっている。しかし、それがどこまでどのように延びているのかをすべて見通すことなど、できるはずがない。だから、そのような選択の意味やその結果を、合理的論理的に最初から予測するなどといったことは、ほとんど不可能なことだ。一言で言えば、社会とはそういうものなのだ。 むろん、愚かな選択などは、できるだけしないほうがよいに決まっている。にもかかわらず、人は状況の中である立場の選択を迫られることがある。しかし、それは、サルトルが言った「アンガージュマン」 などという言葉で表されるような、すっきりしたことでも格好いいことでもないだろう。たぶん、彼もそれを理解していなかったわけではないだろうが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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