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カテゴリ:文学その他
忘れていたというほどのことでもないのだが、先日あちらこちらのブログを覘いていたら、詩人の清岡卓行が亡くなってちょうど一年が経っていることに気が付いた。

 この人の名前を知ったのは、たしか高校の図書館で 『アカシヤの大連』 を借りて読んだのが最初だったように思う。その後、原口統三の 『二十歳のエチュード』 で彼と原口との交友について知ったように記憶している。 

 彼が 『アカシヤの大連』 で芥川賞を受賞したのは48歳のときだ。すでに詩人としては高い評価を得ていたのだが、当時、詩人の受賞ということで話題になっていたような覚えがある。

 ただし、よく考えると、当時はこちらはまだ中学生だったのだから、あとで知ったこととごっちゃになっているのかもしれない。正直に言うと、中学の頃の記憶と高校の記憶が、友人の名前だとかなんだとか、いろいろごちゃまぜになっていてはっきりしないのである。

 原口統三の 『二十歳のエチュード』 には、清岡の名前がなんども出てくる。たとえば、次のように

 僕は、なんの躊躇もなく清岡さんに尊敬を捧げて交われた日々を懐かしいと思う。沈黙した清岡さんに対して僕は信頼していたのだ。彼が何を言おうと、僕はけっして怒らなかった。
 「ランボオこそは君。ぴんからきりまで男の中の男ですよ」この清岡さんの言葉が胸を刺した。そして、それ以来、僕の誠実さの唯一の尺度となった。
 「私は、『地獄の季節』 に驚きはしない。私が驚くのはあのランボオですら、一冊の本を書かずにおれなかった、という事実なのだ」 清岡さんのノートはこうだっただろうか。
                       原口統三『二十歳のエチュード』 より


 
 清岡と原口はともに戦前の日本の植民地であった大連で育ち、先に一高から東大へと進んだ清岡のあとを追うようにして原口も一高に入学する。原口の遺稿である 『二十歳のエチュード』 からは、敗色が濃厚になっていく戦争の中で、詩と芸術という仮構の世界にのめりこんでいた二人の若者の姿がうかがえる。

 一時大連に帰郷していた原口は敗戦直前に東京に帰り、清岡のほうはそのまま大連に留まることになる。そして、清岡と別れた原口は、その翌年に逗子の海に入って自ら命を絶ってしまう。

 今、手元にある古い講談社文庫版の 『アカシヤの大連』 の解説(高橋英夫)によれば、
 「戦後間もない一時期に文学的青春を過ごした世代にとっては、『二十歳のエチュード』 という奇妙に透明な青春の遺書を通じて、清岡卓行という名前は原口統三やその友人橋本一明の名とともに、いや彼ら以上に、ほとんど神話的な名前として響いてきたものであった」 のだそうだ。

 大連に残された清岡はといえば、前掲書に書かれた自筆年譜に、「敗戦。かつての日本の植民地における戦後の明るい混乱の中で、数年来の<憂鬱の哲学> を忘れる」 と書いている。

 その一方で、おそらくは彼の <憂鬱の哲学> の影響を強く受けていただろう原口は、翌年に逗子の海に入って自ら命を絶ってしまう。たぶん、そこには、アルジェリア育ちのカミュと同じように、敗戦によって帰るべき故郷を失ったことも、強く影響していたのだろう。たとえば、原口はこんなことを書いている。

 僕が戦争を嫌うのは、戦争は 「正義」 の仲間だからだ。

 日本では年じゅう黴が生える。この国の人々の手は汗ばんでいる。

 自叙伝 ―― 気まぐれな植民地育ちの夢想児は、日本の土を踏んで、祖国の鈍重な阿呆面に、失望し、退屈したあげく、苦り切って一人お芝居をした。 

 清岡卓行という人は、年少の友人が残した一冊のノートにより、自分のあずかり知らぬところで 「神話的人物」 となるという奇妙な現実から、戦後の生活をスタートさせたのだ。    

    氷りつくように白い裸像が
    ぼくの夢に吊るされていた

    その形を刻んだ蚤の跡が
    ぼくの夢の風に吹かれていた

    悲しみにあふれたぼくの目に
    その顔は見覚えがあった

    ああ
    きみに肉体があるとはふしぎだ

             清岡卓行 「石膏」 より





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Last updated  2008.06.01 21:03:34
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