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カテゴリ:思想・理論
たぶん20年ぐらい前のことだと思う。正確な言葉は忘れてしまったし、どこで書いていたのかも覚えてないが、吉本隆明が、資本主義社会というのは、歴史の無意識が生んだ最高傑作だ、というようなことを言ったことがある。 とんちかんな左翼評論家の中には、この言葉をとらえて、吉本もとうとう転向したみたいな阿呆なことを言った連中もいたが、吉本のこの言葉はたんに冷厳な歴史的事実を指摘しているにすぎない。たとえば、かの有名な 『共産党宣言』 には、次のような一節がある。
彼は、この論文について、エンゲルスにあてた手紙の中で、「この隠された戦争を僕は僕の第一のインド論文の中で続行した。そこではイギリスによる土着工業の破壊が革命的として述べられるのだ。これは彼らにとっては非常にショッキングだろう」 とも書いている。 現代において、資本主義に対する理論的な批判は、ある意味で簡単なことだ。なぜなら、原理的に言う限り、労働力の商品化、すなわち人間の商品化という、資本主義の根本的な矛盾に対する批判は、100年以上も前に完成しているからだ。だが、理論的な批判と実践的な批判とは、全然別の課題である。 たとえば、資本主義に対するそのような批判を、すべての人が完全に理解し納得したととしても、「では明日から資本主義をやめますか」と問うた場合、はたして全員から 「イェーイ」 という答がかえってくるだろうか。たぶん、そんなことは、よほどのことがないかぎり、ありえないだろう。理論的な理解と実践の間には、大きな溝が広がっている。実践とはつねに一種の決断であり、不確定な未来に対する跳躍であるからだ。 いうまでもなく、これは日本を含めた戦後の資本主義が、現実に飢餓の駆逐と大衆の生活の向上にそれなりに成功してきたからだ(これに対しては、それは「低開発地域」からの収奪によって可能になっているのだ、というような反論もあるだろうが、いまはそのことは問わない)。少なくとも、資本主義は問題を抱えながらも、それなりに機能している。資本主義が様々な問題を抱えながらも、今日まで存続しているのは、たんなる偶然のせいではない。資本主義経済というものには、破壊的性格だけでなく、高度の順応性と適応力が備わっていることも否定できない事実だろう。 すでに破産してしまった、ソビエト流の国家所有型 「社会主義」 に対して、マルクスが構想していた社会主義はそのようなものではないと批判することは可能だ。たぶん、そのような批判は間違っていないだろう。だが、国家所有ではない共同所有による社会主義が実現可能であるとしても、そのような社会が、大衆に対して今日の資本主義経済が提供しているのと少なくとも同等の生活を提供しうるものであるかどうかは、誰にも分からない。 むろん、いつの時代にも約束された未来などは存在しないということも言える。たしかに歴史には、そのような未知への命がけの跳躍とでもいうべき行為がいくつも記録されている。しかし、そのような過去を指摘することと、そのような跳躍を、いま、ここで、行うということとは、これまた別の話である。
だとすれば、資本主義経済という狂った経済社会の中で、人はどのようにして正気を保ち狂わずに生きていけるか、ということもまた、資本主義批判ということと同様に重要な課題だろう。いや現実的な意味においては、それ以上に重要な無視しえない問題であるとも言えるのではないだろうか。「拝金主義」 に対する内田樹のしつような批判の根底には、たぶんそういう問題意識が潜んでいるように思える。 付言しておくが、これはたんに苦しむ病人にアヘンを与えるというような意味で言っているのではない。ただ、いまここで、根本的な治療法が見つからないとしたら、どれだけ有効であるかは分からないにしても、とりあえず病人が死んでしまわないように延命手段を考案し講じることも、必要なのではないのかということだ。むろん、資本主義という怪物の暴走を抑えるための様々な具体的な方策や、対抗的な政治勢力、社会運動などの存在意義を否定しているわけでもない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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