オーウェルといえば、『動物農園』 や 『1984』 の作者として有名だが、この人は小説家としてよりも、むしろノンフィクションやエッセイの書き手としてのほうが優れている。彼は名門パブリックスクールのイートン校を卒業したのち、19歳から24歳までの5年間(1922~1927)、イギリス領インドの一部だったビルマで警官として勤務している。下は、その時期のことを描いた有名なエッセー 『象を撃つ』 の一節である。
結局象を撃たないわけにはいかないなと、そのときわたしはとつぜん悟った。群集がそれを期待している以上、撃たないわけにはいかないのだ。二千人の意志によって否応なしに前に押し出されている自分をわたしはひしひしと感じていた。東洋における白人による支配のむなしさ、ばかばかしさにはじめてはっと気がついたのはこの瞬間、こうしてライフルを手に立っていたときだった。
わたしという白人は銃を手に、なんの武器も持っていない原住民の群衆の前に立っていた。一見したところはいかにも劇の主役のようである。だが現実には、うしろについてきた黄色い顔の意のままに動かされている愚かな操り人形にすぎないのだった。この瞬間に、わたしは悟ったのだ。暴君と化したとき、白人は自分自身の自由を失うものだということを。うつろな、ただポーズをとるだけの人形に、類型的なただの旦那(サヒブ)になってしまうのだ、ということを。
オーウェルが言っていることは、ある意味では、フランス人やイギリス人などの 「白人植民者」 が去ったあとにその後釜に座っている、あちらこちらの独裁者についても当てはまるだろう。
飢えた自国民の前で、アメリカなどの大国や国際世論を相手に、ことさら尊大な態度を取り、意味のない空威張りをしてみせるというのは、彼ら独裁者に共通する振舞いである。
自国民を植民地の奴隷のように扱っている独裁者が、国際的な非難を 「新植民地主義」 呼ばわりするとは、まことに傍らいたいことだ。こういう独裁者は、いっそのこと 「国内植民地主義者」 とでも呼べばいいだろう。
もっとも、オーウェルのような認識を持ち得ないからこそ、彼らは独裁者でいられ続けるのかもしれないが。