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カテゴリ:ネット論
タイトルをつけてから、しばし考えた。この言葉は、いったいどこからどのようにして、わが脳髄にいたり来たったのであろうか。 しばしの沈思黙考をへて浮かんだのは、かのドストエフスキーの 『貧しき人々』 と、10数年前になくなったイタリアの作家アルベルト・モラヴィアの処女作 『無関心な人々』 であった。あと、やや長いのであれば、戦前に書かれた葉山嘉樹の 『海に生くる人々』 なんてのもある。ただし、これは名前しか知らない。 ところで、タイトルの 「無敵の人々」 という言葉であるが、これは必ずしも 「負けない」 人たちという意味ではない。おやおや、「無敵」 ということは 「負けない」 ということと同じではないか、という異議がちらほらと聞こえてきそうであるが、とりあえず今はそういうことにしておく。 さて、ウェブ上を毎日のように散歩している方々は、おそらくあちこちの掲示板だとかブログのコメント欄とかで、延々と果てしない議論を展開している人らの姿を見かけたことがあるだろう。Wikipediaによると、とくに他人のブログのコメント欄で、こういう議論の展開をもっぱらのこととしている人らのことを 「コメンター」 と言うらしい。 最初、この言葉は 「アムラー」(ちと古いが)とか 「マヨラー」 とかいう類の、いわゆる和製英語ではないのかと思ったが、英和辞書にもちゃんと載っていたからそういうわけでもないらしい。以下は、そのWikipediaからの引用である。 コメンターとは、いわゆる「コメンテーター」とは異なる概念で、ブログの進化に伴って出現した人種のことを指す。 広義には、ブログにコメントを寄せる人のことをも含有しているともいえるが、一般的には、自分ではブログを開設せず(若しくは更新せず)、もっぱら他所のブログにコメントする人のことを指す。別名 「穴掘り人」。 上のWikipediaの説明に追加すると、中には、ブログ主に対する保護者だか庇護者だかにでもなったつもりなのか、そこへ異分子 (むろん彼にとってのだが) が登場すると、ブログ主に頼まれたわけでもないのに、ねちっこくからんだり嫌みを言ったりして、排除にかかる人もいるようである。そういう人にとっては、どうやらウェブにも 「縄張り」 というものが存在するらしい。 少し話がずれたようなので、元に戻そう。ウェブ上でやたらと議論を展開したがる人たちの中には、たとえば次のような特徴を持っている人たちがいる。
こういう人たちは、いわば 「マトリックス」 の中の人のように、自分で自分にプラグをつけているのであり、すべての現実が彼自身にとって都合のいいように解釈されてしまうのである。であるから、このような人はけっして負けることがない、というよりも、正確にいうならば、「負け」 というものを認識できないのであり、まさにその意味において 「無敵」 なのである。 おそらく、今日もまた、このような人たちは、広大なウェブ空間のどこかで、「あなたの主張は論破されました」 と、勝利の凱歌をあげていることだろう。「君子危うきに近よらず」 という言葉があるが、できることならば、こういう人種とはあまり関わりたくないものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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