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カテゴリ:思想・理論
レーニンが 『なにをなすべきか』 で展開した、いわゆる 「外部注入論」 というものは、今日でははなはだ評判が悪い。中には、この理論は理論を独占したインテリゲンチャによる大衆支配を正当化するものだ、などという見当外れの批判すらあるぐらいだ。しかし、レーニンは本当にそんなことを言ったのだろうか。 『なにをなすべきか』 という本は、一般に前衛党の組織論を定式化したものとして読まれている。しかし、そこで定式化されている組織論は、政治活動や結社の自由がまったくといっていいほど存在しなかった、帝政ロシアという時代状況と密接に関連しているのであり、そのためにやむを得ず、彼の主張は、いささか上意下達という性格の強い秘密主義的で厳格な組織という形を取らざるを得なかったのだ。 社会主義的意識は、プロレタリアート的階級闘争の必然の、直接の結果であるかのように見える。だが、これは間違いである。・・・ この両者は、一方が他方から生れるものではなく、並行的に成立するものであり、またそれぞれ違った前提条件のうえに成立するのである。近代の社会主義的意識は、ただ深遠な科学的洞察をもととして始めて成立しうるものである。・・・ ところで、科学の担い手は、プロレタリアートではなく、ブルジョア・インテリゲンチャである。近代社会主義も、やはりこの層の個々の成員の頭脳に生まれ、彼らによってまずはじめに知能のすぐれたプロレタリアたちに伝えられ、ついで、これらのプロレタリアが、事情の許すところで、プロレタリアートの階級闘争のなかにそれを持ち込むのである。 だから、社会主義的意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない。
ただ、当時のヨーロッパ、とりわけロシアのように、社会全体の教育水準がきわめて低い国では、普通の労働者にはそのような 「科学的洞察」、すなわち知識や理論に触れる機会がなかなかなかったため、そのような役割はインテリゲンチャに限定されていたというだけのことなのだ。 実際、レーニンはこうも言っている。 もちろんこれは、労働者がこれをつくりあげる仕事に参加しないということではない。ただ彼らが参加するばあいには、労働者としてではなく、社会主義の理論家として、つまりプルードンやワイトリングのような人間として参加するのである。 いいかえれば、彼らが、多少ともその時代の知識を持っていて、この知識を前進させることができるときにだけ、またそのかぎりでだけ、参加するのである。
ここでのレーニンの論理は、社会の中で自分は不当に差別されている、抑圧されているなどと感じている人たちがしばしば陥りやすい誤り、すなわち、おれたちこそが問題を正しく認識しているのだ、といった類の、悪しき 「当事者主義」 とでもいうべき素朴な論理とは明確に異なっている。 つまり、レーニンがここで言っていることは、労働者に対して、現場での不満をただぶちまけるだけの 「こども」 ではなく、社会全体を客観的かつ冷静に広く見渡すことのできる 「おとな」 になれということなのである。たんに問題の指摘に留まらず、問題の解決を志向するならば、こういうことはいつの時代でも必要な条件である。 カウツキーやレーニンが考えていたような 「社会主義的意識」は、おそらく現代の社会に対して、そのままの形では通用しないだろう。また、このようなレーニンの要求は、現実に対して、いささか過大な要求なのかもしれない。しかし、このようなレーニンの問題の立て方自体は、けっして古びていないし、普遍的な一般性を持っているように思う。 おお、今日はひさしぶりに、思いっきり左巻きのことを書いてしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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