ロシア土産の定番に、マトリョーシカ人形というものがある。ボーリングのピンのような形をしていて、かぱっと割ると中から小さな人形が現れ、それを割ると、また中からさらに小さな人形が出てくるという仕掛けになっている。実物を手に取ったことはないが、だいたい4個か5個ぐらいの人形がだんだん小さくなりながら、中に納められているのだそうだ。
見るからに大金が詰まっていそうな大きな金庫の扉を開けてみたら、また中に扉があって、それを開けてみたらまた扉があってとか、金銀財宝ざあくざくと期待しながら大きなつづらを開けてみたら、その中にまた小さなつづらがあって、それを開けてみたらまたさらにつづらがあって、みたいなのも似たような話である。
たとえば、夢の中で夢を見る夢を見ている人が現実世界に戻るとすれば、まず夢の中で、夢からさめる夢を見なければならないということになるのだろうか。さすがに、それは分からないが、夢からさめたと思ったら、実はまだ夢の続きだったというぐらいのことは、なんとなく何度かあったような気がする。
おやおや、なんだかでだしから、わけの分からぬ展開になってしまった。
「人間は考える葦である」 と言ったのはパスカルだが、人間の行為というものは、すべて多かれ少なかれ、 「意識」 すなわち 「主観性」 という呪いに取り憑かれている。当たり前のことだが、「パブロフの犬」 のような、たんなる反射だけで説明できるのは、熱いものに触れたら手を引っ込めるとか、なにかが飛んできたら身を避けるといった単純な行動にすぎない。むろん、イヌだって、ただの反射だけで生きているわけではないだろうが。
だから、この場合、「意識」 とは、刺激に対する生体の反応の 「遅延」 のことであり、一定のずれのようなものと言うことができる。しかし、逆を言えば、そのように刺激と反応との間に、意識 = 思考というなにやら余計なものが介在することで、人間は他の動物とは違って、直接性という制約から逃れること、つまりは些少なりとはいえ、自由を手に入れたのだろう。
人間は、意識によって現実を把握し理解するものである。そのかぎりで、意識には現実が反映されるものだ。もし、そうでなく、意識の内容がすべてただの妄想にすぎないとすれば、生物としてはまったくひ弱な人間は、とうの昔にトラやライオンにみんな食われて滅んでいたはずである。
とはいえ、意識は鏡のように対象をただ反映するわけではない。意識というメモリにはそれだけの容量はないだろうし、だいいち、そのように対象をそのまま反映した意識などというものは、ただ現実を二重化しただけの、屋上屋を重ねたようなものにすぎず、なんの役にも立ちはしない。
結局、人間が 「考える葦」 であるかぎり、そこにはつねに一定の 「幻想」 としての 「観念」 が伴うものなのだ。そのような幻想は、良くも悪くも、人間のあらゆる生活過程の中から必然的に発生してくるものであり、そのすべてを否定し禁じることは、人間に対して、ただのロボットになれと要求することと同じである。
であるから、このような 「幻想」は、ただ目をつぶれば消えてなくなるようなマボロシなのではない。「幻想」が 「幻想」 として成立し、社会の中で一定の現実として流通し、しばしば大きな力を持っていることじたいは、けっして 「幻想」 ではない。
世の中の 「イデオロギー的構築物」 といわれているものは、すべてそういうものである。ある観念が 「イデオロギー的構築物」 であることが暴露され、かりにみながそのことに納得したからといって、そのような観念=幻想が、いきなりある晴れた日の朝のように雲散霧消し、「現実世界」そのものが裸の姿でたち現れてくるわけではない。
人間が大昔から 「イデオロギー」 などというわけの分からぬものを生み出し、そのためにしばしば自分で自分を縛り苦しめてきたのは、言い換えれば、人間が人間であることの証明なのであり、ようするに人間が自由を得たことの代償なのである。
ただ、人間とはそのような幻想的な観念を日々生み出し、多かれ少なかれ、そのような観念に取り憑かれながら生きざるを得ない生き物だということを自覚することは、たしかになんの腹の足しにもならぬとしても、少なくとも、そのような観念のために無駄に苦しんだり、妄想じみた観念の虜になることへの、予防薬や解毒剤としての役割ぐらいはするだろう。
「おとな」 になるということは、たぶんそういうことでもあるはずだ。先の首相は、どうやら元気を回復したようだが、前の失敗から少しはなにかを学んだのだろうか。テレビで見る限り、どうもそういうようには見えなかった。